56.王太子殿下
「銀色の髪に、ミントグリーンの瞳……なるほど、そなたがナイトレイ伯爵夫人か」
ぽかんと口を開ける私の横で、ラヴォントが表情を輝かせる。
「父上っ!」
父上ってことは、あの人が……
「レグリス……王太子殿下?」
その名を口にすると、男は大きく頷いて私の目の前に降り立った。
「いかにも。我こそはエクラタン王国第一王子、レグリス。妻子ともども、よろしく頼む」
「お、お初にお目にかかります。私はナイトレイ伯爵夫人、アンゼリカと申します」
この人がレグリス……未来のエクラタン国王……!
「そなたの話は、父と我が友より聞いていたぞ。悪食伯爵の妻にして、稀代の精霊具ハンターよ!」
何ですか、その珍獣ハンターみたいな異名は。
「そなたは、二つの精霊具を発見した女性。精霊の母と呼んでも過言ではなかろう」
「は、はぁ」
それは、ちょっと過言だと思う。ほら、水差し丸も「それはないっす」って左右に揺れてるし。
「おかあさま、ネジュのおかあさまじゃない……?」
私のドレスの裾をぎゅっと掴みながら、ネージュが不安そうに聞いてくる。レグリスは穏やかに微笑み、「そんなことはないぞ」とネージュの頭をぽんと叩いた。
「ナイトレイ伯爵夫人は、れっきとしたそなたの母親だ。いらぬ心配をさせてしまったことを謝罪しよう」
「まったく。たまに余計なことを言うのは、父上の悪いくせだ」
「息子に指摘されると、この我でも少し傷付く」
……マジラブの王様って、こんな人だっけ?
私は目をぱちくりさせながら、レグリスをじっと凝視する。
透き通るような銀色の髪と、ラベンダー色の双眸。そして成長後のラヴォントによく似た顔立ち。
うん、誰がどう見ても親子だわ。疑いようがない。だけど、私が知っているエクラタン国王と全然違う。
「水の精霊具よ。先ほどは怯えさせてすまなかったな」
その言葉に、水差し丸はようやく放水を止めた。
「……いったい何がありましたの?」
「殿下が精霊具のすぐ傍で、うっかり爆薬を引火させてしまいまして。」
「よーしよしよし、いい子だな」
透明なボディを、犬猫のようにわしわしと撫でるレグリス。よほど気を許しているのか、水差し丸もされるがままだ。初めてシラーに会った時は、容赦なく水鉄砲を連射していたというのに。
「あの……一つよろしいでしょうか殿下?」
「うむ。我に何か質問か?」
「水差しま……そちらの精霊具は、ずっと殿下がお持ちだったのですか?」
私は素朴な疑問を口にした。
「いかにも。本当は雨爪病の件が片付き次第、早急にナイトレイ伯爵家に返却する予定だったのだが、ある問題が発生したのだ」
レグリス王太子が額に手を当てて、首を横に振る。私はごくりと息を呑んだ。
「あ、ある問題ですか……?」
「我の好奇心が爆発してしまった」
「…………はい?」
「無尽蔵に水を生み出すだけではなく、雨爪病の特効薬をも精製する精霊具。地味ながら規格外の能力だ。──だが、それだけなのか? いや、こやつのポテンシャルはこんなものではないはずだ。ということで、少しじっけ……ゴホン、我の研究に協力してもらっていた!」
今実験って言おうとしたな。陛下が仰っていた「色んな意味でバカ」の意味がだんだん分かってきた。
「そなた、ナイトレイ伯爵家の子だったのか……」
ラヴォントが水差し丸を労わるように撫でる。
「その結果、この水差しの中に食品などを入れると、通常なら数ヶ月ほど要する発酵、熟成期間をたった数日までに短縮出来ることが分かった」
「す、数日……!」
一見地味だけど、すごい能力だわ。ワインなんて作り放題じゃないの!
「そして精霊具の協力の元、完成したのがこの秘薬だ」
レグリスは誇らしそうに水差し丸を掲げた。中の液体がちゃぷんっと跳ねる。
「主原料は食塩と小麦。それからノワ豆という黒い豆だ。このノワ豆というのは栄養が多く含まれている反面、皮が厚く渋みも強いため、食材には向いていない。そこで我は、調味料に加工することを思い付いた。そして前述した材料の他に、精霊の素を加える製法を編み出したのだ。それにより、ノワ豆特有の渋みを抑えるだけでなく、独特の旨味を引き出すことに成功した。しかも、優れた静菌作用も持っている。これぞ、まさに秘薬!」
一気に捲し立てられ、私は「あ、はい」と頷くことしか出来なかった。というより、早口すぎて最後の「まさに秘薬!」の部分しか聞き取れなかった。
「……よく分からんが、秘薬だそうだ。きっとすごい効能があるのだろう」
ラヴォントは親指を立てながら言った。あなたさっき、夢幻の鏡にぶっかけてたわね。
それはさておき。
「レ、レグリス殿下。もしよろしければ、一口味見をさせていただいても……?」
「構わぬぞ。しかし先ほども説明した通り、独特の風味を持っていてな。部下たちには不評で少し悲しい」
「いえ、是非とも賞味させていただきますわ!」
私は手のひらに液体を少量垂らすよう、水差し丸に頼んだ。そしてそれをぺろりと舐めてみる。
……確かにしょっぱい。けれど塩気の奥に、独特の風味が隠れている。私はこの味をよく知っている!
「しょ……」
体を小刻みに震わせる私に、ネージュが「しょ?」と首を傾げる。
「醤油だわ~~~~っ!!」
歓喜のあまり、私は人目をはばからずに叫んだ。
この世界に来てからというもの、洋食三昧の毎日。こうして和風の味に触れるのは、前世以来となる。ああ、洋食漬けの体に醤油のしょっぱさが染み渡る……っ!
「うぅっ、うぅぅ……っ!」
「ふ、夫人! 泣くほどまずかったのか?」
感極まって涙を流す私に、ラヴォントが心配そうに声をかけてくる。
「そうではありませんの。とても素晴らしい……故郷を思い出す味ですわ……っ」
「む? ルミノ男爵領には、同じような調味料があるのか?」
私の言葉に、レグリスがすかさず反応した。まずい。感動のあまり、つい口を滑らせてしまった。
「何という名前だ? どんな味だった? 色や匂いは? 原料には何が使われている?」
目を見開きながらにじり寄ってくる。怖い怖い、マッドサイエンティスト怖い!
「おかあさまいじめちゃ、めっなの!」
ぷっくりと頰を膨らませたネージュが、レグリスの前で大きく両手を広げる。するとレグリスは、ピタリと動きを止めた。
「……この我も幼い少女には逆らえぬ。ここは引き下がるとしよう」
「そうだぞ、父上。アンゼリカ夫人をいじめたら、ナイトレイ伯爵とプレアディス公爵が飛んでくるぞ!」
「そういえば、あの二人も登城していたか。たまには研究室に顔を見せに……いや、研究室は我が爆発させたから、当分入れないか。はっはっは」
この人ほど、バカと天才は紙一重という言葉が似合う逸材もいないと思う。
「旦那様たちが王都に戻りましたら、殿下がお会いしたがっているとお伝えしておきますわ」
「……何? 炎熱公爵はともかく、ナイトレイ伯爵は妻子を放ってどこをほっつき歩いているのだ。あの朴念仁め」
レグリスが不愉快そうに眉を顰めるので、私は「マ、マティス伯爵領ですわ、マティス伯爵領!」と慌てて付け加えた。
「マティス……うむ、あのやらかし貴族のところか。反乱自体はとっくに鎮圧されたと聞いていたが……何かあったのか?」
「いえ、ただの視察と仰っていましたわ」
「……あやつら、この件にかかりきりではないのか? 他の者たちはどうしたのだ」
それについては、陛下や宰相も申し訳なく思っていると仰っていた。何でも、多くの貴族が匙を投げちゃっているらしいのだ。まともに動いているのは、シラーやカトリーヌを除けば、ごく一部だけだという。
「まったく……確かに今回の一件は、マティス伯爵の自業自得によるところが大きい。しかし貴族にとっては、決して他人事ではない問題だ。皆が一丸となり、解決せねばならぬというのに、あやつらばかりに任せるとは」
「レグリス殿下……」
「そのせいで、我の研究室に全然来てくれぬではないか!」
それは多分、違うと思いますわよ殿下。
とはいえ、私もあの二人にはゆっくり休んでもらいたいと思ってる。ネージュだけじゃなくて、メテオールもきっと寂しがっているだろうし。
「だがまあ他の連中の気持ちは、分からなくもない。時期的にも、そろそろ湧いてくる頃だからな。面倒ごとは避けたいのだろう」
「あの、湧いてくるというのは……?」
レグリスの言葉に私は言いようのない不安を覚える。
そしてこの時、マティス伯爵領では大変なことが起こっていた。




