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3.3.1.南へ

荒磯「女神よ、ご覧いただきましたでしょうか。私はこの世界を捨てました。現実に対する執心を持っていないとこれで証明出来たでしょうか」


 見るからに(やつ)れ、喉の奥から絞り出すようにそう言った。体は軋み、肉体的な苦痛にも耐えながら両手を突いていた。


女神「改めて聞く。貴方がどちらの世界で生きる者なのか」


荒磯「それはもちろん、神界で御座います。御寮は常々私は向こうの世界では暮らせないとおっしゃいます。ただの人間でしかなく、肉の体と歴史の世界に閉じ込められて一生を終える存在であるとおっしゃいます。それはこの身で痛いほど分かっています。しかしそれでも私はやはり、御寮の世界を望むのです。


 たとえこちらの世界で幸福を得ようと、栄華の道が開かれていようと、神界への切なる思いに及びません。


 私が御寮の世界を選ぶのは、現実が嫌いだからではありません。現実が嫌で逃げ先にしているのではなく、それをこそ望んでいるのです。たとえ現実が恵まれていようと、私の本心は神界を求めているのです。


 彼方こそが私の望み、あちらの世界が私の憧れ、御寮の足下に身を投げることだけが、私の唯一の救いなのです。


 たとえどれほど恵まれようとも、私はこちらの世界では笑えないのです。私が笑いたいのは、あちらの世界においてなのです。


 ですから御寮、どうかお聞きください、私が選びたい世界というのは、他でもなく、現実などでは決してなく、ただただ御寮の世界だけなのです。そうです、私は、御寮の御許にありたいのです」


女神「私が与えた福徳を奪い取るのを貴方は見たはず。私は貴方に与えもするが奪いもする。にも関わらず貴方は私を求めると言うの?」


荒磯「然様で御座います。私が御寮を信奉するのは与えられるからではありません。お与えもし、同時にお奪いもする。それらを含めて、承知して尚、信奉するのです」


女神「与える面のみならば貴方の利益になるだろう。私の一存で不幸にもなると知って尚とは、それは何故」


荒磯「それは……。結局は、それが、私というものだったのです。利己のために御寮に帰依するのではありません。私を幸福にしようが不幸にしようが、それは御寮の御心のままです。それでも私は御寮の足下に身を投げて、あの世界へと渡りたいのです。


 真を、善を、美を、恒久なるそれらを、言語化され得ぬ心の奥底が、魂と呼ばれるものが、それらを求めて()まないのです。


 ですから御寮、どうかお聞き入れください、私はあくまで神界をこそ望むのです。宣誓いたします。私は、神界を選びます」


女神「よく分かった。宣誓、しかと聞いた。その言葉はこの場に刻まれた。それでは通そう。向こうの世界へ行くがいい。それほどまでなら見せても良い。身に帯びるものは何一つとしてなく、それでも敢えて神界を選んだのだから」


荒磯「ありがとうございます」


 そうして女神は跪く彼に神薬を授け、あちらの世界へ送り出した。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 神界の夜が明けると、その風景には見覚えがあった。十万億土の神界で、同じ場所に降ろされるなど、偶然であるなら天文学的な確率だろう。女神は意図して彼をその場所へ送ったと見るのが自然だった。


 アライソは早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして周囲を見渡した。一方の地平線から頭を上らせる旭日は無窮の空へ薔薇色の光を放っていた。紫色に染められた東の雲は悠然として長く長く棚引いていた。


 草原は視界いっぱいに広がって、一面が巨大な鏡のように輝いていた。朝露が陽光を孕んでいるからだった。それは陽気に当てられて、靄を薄く湧き出させていた。白い靄は女神の衣のように清らかに柔らかに膨らんでいた。その光景は雲上を思わせた。


 遠目に見える靄の切れ目、街道にまで辿り着くと、アライソは朝日を左手にして歩いて行った。


 ここは神界の南端近く、鎮南軍の要塞に行った時に来着した場所だった。彼はその要塞で将軍に謁見し、若い兵士と決闘をした。そしてその前には、要塞のある島へ渡る前には港町に行った。近くの岬でミルメと会った街だ。その時の場所だった。


 もう随分と前のことに思われた。しかし神界の時間の流れは現実とは異なる。現実では長い時間が過ぎてしまったが、こちらの世界ではあれからどれだけ経ったのだろうか。あの時から何ヶ月後の時点に送られたのだろうか。


 神界は恒久不変の世界だった。あれ以来何度も来ているが、変化がなければ時間の経過が分からなかった。もしかしたら今は数ヶ月どころか数日後の可能性だってあった。


 しばらくすると街が見えた。その左右には海岸線が伸びていた。あの街だった。清明な神界の港町だった。


 一歩一歩と進んで行くと、街の様子が訝しく見えて心の奥がざわついた。足は少し速くなった。


 遠目に行き交う人影が見えた。だが今回は前回と違い、彼らの姿に活気というものが見えなかった。賑やかな声も聞こえなかった。


 近付いて行くとやはり異様な感じがした。何事かが起こったようだった。


 胸騒ぎを抑えながら、ついに街へと到着した。船人達やミルメの暮らす街、その中に足を踏み入れると、やはり欠けるところがあった。陰鬱な雰囲気だった。


 人々の表情は暗く沈み、それでいて尚且つ慌てていた。その中の一人に声を掛けた。


アラ「どうか、したのですか。何かあったのですか」


 話し掛けられた神人はぎょっとして、身体を硬くしながら相手をまじまじ見たが、それがアライソだと分かると、口を戦慄かせながらも何とか話をしようとした。彼は前回に会った船人だった。あくまで暢気(のんき)であった彼が動揺していた。


船人「ああ、貴方でしたか、アライソさん。貴方も逃げた方がいい。いや、逃げると言ってもどこへ行くのか、どうしたらいいのか」


アラ「どうしたのですか!」


 彼はわなわなと震え出し、


船人「南軍の砦が、神軍の要塞が壊されたのです!」


アラ「え!」


船人「外からやって来た悪いものが要塞を襲い、神軍を壊滅させたのです! 命からがらやって来た兵士の方がそれを伝えてくれました。荒れる海を渡って、私達にそれを伝えに来てくれたのです。


 城塞は破壊されました! 逃げなければ。でもどこへ。神軍を襲ったあの龍が、いつこの街にもやって来るか分かりません」


アラ「龍が! 龍が来たのですか!」


船人「ええ、そうです。そのように兵士の方は伝えてくれました。鎮守の軍が堪えられなかったのです、備えのないこの街では一溜まりもありません。貴方も早く逃げて下さい」


 アライソは駈け出した、大通りを海へと向かって。人波に逆らい、少しでも速く、波止場へ急いだ。


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