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3.2.15.夢幻泡影

 次に神界へ行けるのは二週間後か、そのことだけを考えていた。山の祠に女神が現れるのには周期がある。今回は女神に拒否されてあの世界へは行けなかった。だから次回までの約二週間をただ待たなければいけなかった。


 瀬羅に別れを告げた。それから彼女から何の連絡も来なかった。こちらからもしなかった。数日間をただ狭く暗い自分の部屋で横になり、つまらない雑誌を捲りながら過ごした。


 彼女に告げた別れとは、つまりはこの世界との決別だった。自分はこちらの世界の人間ではない、あちらの世界に住めなかったとしても、それでも敢えて現実世界を捨てるという宣言だった。以前から思っていた、自分は現実に属する人間ではないという定義を、これではっきりと確定させた。


 思っていただけなのと確定させたのではやはり気持の上での違いはあった。寒々とした心地だった。それでも清々しかった。虚しさもあった。しかし現実を生きている間にも虚しさはあった。周囲の全てが虚飾に思えた。それでもそれらは鮮やかだった。


 だがしかし、鮮やかな色彩の中で過ごしていたとしても、それらは表面的な壁紙にしか見えずに、爪を立てれば剥がしてしまえそうな感覚もあった。彼はその壁紙を一枚剥がしたところだった。


 何度も目を通した雑誌を放り、手持無沙汰にスマホでニュースサイトを見た。トップには有名企業の不祥事が載っていた。


 世界的な大企業であり、他国でも名前は知られている。その分野において五指に入る会社だった。そこが数十年にも渡って不正をし、先日それが発覚したそうだ。これまでの積み重ねは虚飾だった。ブランドは偽りのものだった。信用は崩れ、水泡に帰した。技術的にも資本的にも永遠に存続すると思われていた企業がこうなった。


 関連記事のリンクを辿り、読むともなしに読んでいる内、はっと思い出した。ここは自分が投資をしている会社だった。


 慌てて株価を検索すると、自分の買った値段の半分未満になっていた。ニュースを見るに再建の目途は立たない。急いで売った方がいいだろう。理性では分かっているが、破れかぶれになってスマホを投げ出し、何もせずにまた布団に横になった。こうしている間にも自分の資産は減って行く。だがそれが何だと言うのだろう。


 翌朝、目が覚めると腰が痛んだ。腰痛の発作だった。治療はしていた。だが腰痛は一度持病になってしまえば完治することはない。また暫くはこれと付き合わなければならなかった。病院に予約を入れてその日を待った。


 当日、タクシーを使おうかと思ったが、資産が激減していく状況の中では出費は出来るだけ抑えたかった。やむなく歩いて行くことにした。


 途中、まだ時間があることもあり、公園で少し休むことにした。ベンチに座っていると風に乗って話し声が聞こえて来た。見るとベビーカーを押した主婦達が談笑をしていた。何でもない、ただの井戸端会議だ。だが視線に気が付いたのだろう、チラとこちらを向いて、それから会話に戻った。その振り返るまでの一瞬、彼女らは揃って嫌な顔をしていた。


 この数日間ろくに髭も剃らずにいた蓬髪の男が、平日の昼間にこんな所に座っていた。彼女らはこの浮浪者が公園に居付くことを心配したのかも知れない。安心して欲しい。ただ通り掛かっただけで、もう二度とここに来るつもりはなかった。


 女神は荒磯が瀬羅に何も答えていなかったのを知っていた。だからあの日に彼が彼女に言ったことは、もう女神も知っていることだろう。女神への意志の表明は半ば出来ていた。現実世界を捨てるとはこういうことだった。


 近頃は現実世界でのあらゆる物事が順調だった。しかしそれは失われた。上手く行き始めるより前の、何も持っていなかった頃の彼に戻っていた。彼自身でこの世界での成功を捨てたのだった。


 アパートに帰って郵便箱を開けると、茶色く厚い封筒が一通置かれていた。他には何もない暗い金属の箱の中で、それは堂々として手に取られるのを待っていた。


 宛名は手書きだった。裏返すと、それは妹からの手紙だった。自室に入るや否や急いで封を切り、中身を読んだ。


 内容は前略から始まり、謝罪の言葉が続いた。そしてすぐに本題に入った。


 妹は無事に結婚した。夫は変わらず良くしてくれる。その事は良かった。だが問題は兄のこと、彼のことだった。


 荒磯は結婚式を欠席した。それを親族は怒り、新郎も良くない印象を持った。彼らは家族を最も大切な、何にも優先されるものだと思っていた。それに関わる催事に彼は出なかった。


 しかも妹は兄を除いて肉親がいない、ほとんど天涯孤独の身の上だった。そんな彼女のたった一人の肉親が、人生で一度の晴れの舞台に参加してくれなかった。そのような所業をした彼は人の心を持っていないとまで思われた。


 彼らは妹のために怒った。妹は擁護しようとした。その優しさを見て彼らは一層に憤りを強くした。あの一族は善良であったからこそ荒磯の冷たさを許せなかった。そして家族の絆は何よりも尊いものだと考えていたからこそ、以前には彼を一族に迎えようとし、それと同じ理由で今では彼を蔑んだ。


 非情な冷血漢。妹がフォローしようとすればするほど、このような良い人を悲しませる彼のことを憎むようになった。


 遂には妹はもう二度と彼と関わりにならない方がいいとまで言われた。兄妹は血を分けているとは言え所詮は別々の人間でしかなかった。妹が良い人間であったとしても兄がそうであるとは限らない。それに、これまでだって殆ど連絡を取っていなかったのだ、関係がなくなったとしても、これまでと同じではないか。


 彼らは妹に縁を切るよう説得した。少なくとも、もしも会うことがあったとしても、自分達とは一切関係のない相手とするよう、それについては納得させた。


 妹は悩み苦しんだ。連絡を取り合うようなこともなく、事実上においては既に縁が切れていたようなものだとは言え、兄のことは慕っていた。それでも最後には関係を断つ決心をした。彼女には夫がいた。妹は世の中の誰よりも愛する夫の心情を優先した。


 手紙にはそうした内容が綴られていた。この手紙は妹からの絶縁状だった。もう二度と会わない、連絡も取らない、兄もそうして欲しい。理解をして欲しい。そのようにして手紙は結ばれていた。


 荒磯は暗い気持を抱きつつも受け入れざると得なかった。そして手紙の最後には次の文章が加えられていた。




 追記


 お兄さんは優しいから、これで私が親族の方々から無碍にされるのではないかと心配されるかも知れません。ですがそれについては安心してください。皆様はそんな方ではなく、あれからも私に優しくしてくれます。


 ただ私に血縁者がいないと考えられるようになっただけのこと。私には、兄というものがいなかったのだと、そのように思われるようになっただけのこと。私には兄がいない。そうなってしまっただけのことです。


 私には兄がいないのです。すみません。本音を言えば私も悲しいのです。しかし、私には兄がいないという、それが事実となったのです。私には兄がいません。ごめんなさい。


 返信は無用です。


 さようなら。お元気で。




 交流はしていなかったとは言え、それでも荒磯と世間とを繋いでいた唯一の縁が、これで切れた。彼は現実世界と切り離された。


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