3.2.4.困惑
これまでであったなら、気を払いつつも素直に断っていただろう。しかしこの時の荒磯は、心の内の弱い部分が露わになっていた。神界での出来事の影響だった。
彼はミルメに心を惹かれた。心は人を好きになる方向へ動いていた。しかしミルメには恋人がいた。心の外殻のようなものが崩れた。剥き出しになった心は寒々しく、震え、何かを求めたくなっていた。優しさや慰めが欲しかった。そしてそれ以上に好きになれる誰かが欲しくなっていた。
瀬羅のことは嫌いだった。憎悪し、殺意すらも覚えたこともある。だが彼女はこちらに好意を持っていた。それに応えるだけで恋人関係になれた。愛を求めるのであれば丁度いい相手だった。
彼はこれまでの人生で孤独を愛し、恋人というものも持ったことがなかった。凪ぎ渡った静寂の内に身を置くのを何よりも好んだ。自分がそうした人間であると定義していた。
それが、心が弱っているところへ、真っ直ぐな好意をぶつけられた。彼女の力強い意思は楔のように打ち込まれた。
愛憎は違えども彼女に激しい感情を抱いていたのは確かだった。彼女は荒磯にそれだけの感情を抱かせる相手だった。したがってもしも彼が彼女を愛するようになれば、これまで憎んでいたのと同じ分だけ、強く愛するようになるだろう。
彼は心の指針が揺れ動いているのを感じていた。だが、今は未だ嫌悪の方向を指しているのも分かっていた。しかし、それがいつ好意へと向くかは分からなかった。迷いなどない、飾り気すらない、余りにも直截的な告白はそれほどまでに彼の心を打ち、揺れ動かした。
荒磯は汚いアパートの荒れた自室の万年床で横になり、黒ずんだ天井を眺めていた。
好きになりたいという気持は強かった。それと同時に断る理由を探していた。収入が不安定であること、年齢の違い、性格、容姿の差、何が思い浮かんでも、そうしたものなど彼女は全て承知の上でこちらに好意を伝えたのだと分かっていた。
どうして自分のような男を好きになったのか。考えてみても矢張り彼女の言っていた、理由などない、に行き着いた。敢えて言うのであれば、彼女は男の趣味が悪いのだろう、そう思って茶化してみても虚しくなるだけだった。
寝返りを打ち、考えるのは止めた。どちらにしても今は保留だ。それよりも神界に行きたかった。あの美しい世界で過ごすことが自分にとっての喜びだった。
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山で会った女神は今回も優しそうな目をしていた。瀬羅のことが頭から離れない彼にもそれが分かった。何故かは分からなかった。彼女は自分をそのように扱わないはずではなかったか。しかし幾ら考えても答えは見付からないだろうと思い、気にするのは止めた。
神界へ飛ばして貰う時には、以前までと同じように薬だけを願って、他の希望は述べなかった。辺境に関しては神軍がいる、南軍の将も四方は任されよ、と言っていた。だからこれといった向かうべき当てもなく、女神の意のままにした。
神界は平和だった。東方で起きたことが嘘であったと思えるほどに。彼はそれまでのように神人とは関わらないようにし、安寧な世界を満喫した。
何事もなく現実世界へと戻って来た。今回は盗みも首尾よく行えた。塔の外壁に埋め込まれた宝石を盗って来た。これと言ってそれを選んだ理由があるのではない。綺麗だとは思いはしたが、それまでと同じだった。何となく、だった。
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こちらの世界に戻った時には女神はおらず、普段のように山を降った。
機関へ向かい、手続きを踏んで報酬を受け取る順番を待った。前回は大きな稼ぎになった。だから今回は意に添わぬ結果になったとしても不満は抱かないだろう、と思っていた。
アナウンスに呼び出され、窓口へ行った。
職員はたった一枚だけの紙を差し出した。荒磯は動揺した。今回も、報酬は振込の金額になっていた。前回に続き二度までも。続けて大金になっていた。
強いて心を落ち着かせ、金額の項目に視線を移した。信じられなかった。壱佰四拾萬円。震える手でサインをし、どこへも寄らずに真っ直ぐに帰宅した。
とても信じられなかった。前回の金額すらも大きく上回っていた。偶然にしても、余りにもな幸運だった。しかも、間を空いてではない、連続して、だ。
瀬羅の言っていた事が脳裏を過ぎった。
──出来た、ということは、方法が分かったということ。方法が分かっているなら、次からも同じように出来る。これから荒磯さんは安定して儲けられるようになる。
いや、これは間違っている。自分は何も分かっていない。儲ける方法なんて何一つ分かっていない。全部偶然だ。
偶然にしても、前回はそれまでとは違うものを持って来ていた。自分では良いとは思わないものを持って来て、大金になった。それはそれまでの自分のやり方が間違っていて、その時のやり方が正しかったのだろう、と考えることも出来た。自分の感性が間違っていたとも。
だが今回はそうではない。それまでと同じように、自分でも良いと思えるものを持って来た。感性が間違っていたわけではなかった。
それまでと同じだった。同じようにやって違う結果になった。
──大丈夫だよ。必ずこれからは上手く行く。私はそう信じているから。
瀬羅の言葉が頭の中で響いた。
それから次に神界へ行き、戻って来た時も彼の盗品は高く売れた。その次の時もだ。共に百万円は超えていた。月収にして二百万円超。肝が冷えた。こんなことは有り得なかった。言わば奇跡のようなものだった。
だが、しかし、整理の付かない感情の片隅で、彼女の言ったように、稼ぐ方法が分かったのではないか、との考えが過ぎった。確かに意識の上ではどうしたらいいのか分からない。それでも、脳の裏側で、これまでの経験によって、無意識にやり方を覚えたのではないか、と思った。そうとしか説明が付かなかった。
感覚で、体で、そうしたことが自然と出来るようになったのではないか。論理化が出来たのならばそれに超したことはない。だが、一度覚えてしまえば頭で考えずとも自転車に乗れるように、何も考えずとも稼げるようになったのでは。
馬鹿な。しかも突然に。やり方が分かってもいないのに。
しかしこれを裏付けるようにその後も仕事は上手く行った。何を持って行ったとしても、報酬が百万円を下ることはなかった。
仕事が上手く行き始めた。




