時止まりの令嬢
ブライトン侯爵家の一人息子であるアランは、登城すると真っ先に王太子の私室を訪ねた。
「『時止まりの令嬢』……ですか」
目の前で優雅にカップを傾ける王太子レオハント。彼の口から聞かされた意外な人物の名前に、アランは逡巡する。
王子の私室は私的な空間故、レオハントは人払いをさせていた。寛いだ様子でアランにも紅茶を進める。
「歯切れが悪いな。いつものようにすぐに引き受けてはくれないのか?」
「……そうですね」
即答できない理由がアランにはあった。
『時止まりの令嬢』とは、今社交界を騒がせている話題の人物で、ロックベル伯爵家の一人娘メルディの事である。
メルディは、十二歳の時に忽然と屋敷から姿を消した。
誘拐事件とされた伯爵令嬢の失踪。必死の捜索も虚しく、彼女の行方、犯人の手がかりを掴むことは出来なかった。
伯爵令嬢の誘拐は、当時の社交界で大きく注目される事件となり、軍も出動しての捜索となった。解決の糸口が一向に掴めない軍は、自分達の無能さを露呈してしまうのを恐れ、結果を残すことに固執した。
それにより更なる悲劇を生むこととなった。
軍は当時住み込みで雇われていたメルディの家庭教師を無理やり捕え、事件の幕引きを強引に進めたのだ。
勿論家庭教師は無実だった。納得のいかなかったロックベル伯が、家庭教師の無実を証明し、その強引な捜査手法を公に批判した。
拘束を解かれた教師だったが、軍の過剰な捜査と拷問が原因で、その後息を引き取ってしまったという。
人権を無視した軍の強引な捜査に労働階級は怒り、火の粉が飛ぶのを恐れた上流階級は家庭教師に同情し、国民は一向に伯爵令嬢を見つけられない軍に不満を持った。
世論の怒りは日に日に増し、国王までが動く事態となった。
国王は軍の過去の不正を暴き、長きにわたる隠蔽体質を一掃させるため、最高司令部を解散させ、悪質な拷問を行った者は処罰された。軍は新たな長官を迎え入れ一新された。
そして、軍とは切り離した、事件を捜査し罪人を捕らえる権利を与える新たな組織を作った。それが現在の警備隊が出来上がる礎となった。
警備隊の発足は、軍と似た組織で互いを監視させ、不正に歯止めをかける役割も担っていた。
悲しくもメルディの事件をきっかけに、軍の改革にまで繋がったこの一連の出来事は、後に『メルディ事変』と名付けられることになる。
そんな国を揺るがす程の騒動もあり、メルディの失踪は世間から忘れられ、月日だけが過ぎていった。
四年。
誰もがメルディの事を諦めていた。そんな時、突如彼女は成長した姿でロックベル家に戻ってきた。
自らの足で戻ったメルディのその指には、ロックベル家の紋章が刻まれた指輪が嵌められていた。
何故、今になって、一体どこで何を?
疑問は次々と浮かんでくる。
しかし彼女は、過去の記憶を全て失っていた。
誘拐された時に抵抗して、馬車から落ちたはずみで記憶を失くしてしまったという。
メルディは唯一自分の名だけを覚えていて、犯人の姿も、自分が伯爵令嬢だという事も全て忘れていた。更に誘拐犯は追手から逃れるために、彼女に貧しい農民の恰好をさせて偽装していた。そのため、馬車から落ちた彼女を介抱した者も、その高貴な出自に気付くことは出来なかった。
それからメルディは、指輪を大切にしながら教会に身を寄せて静かに暮らしていたという。
数年後、その教会へロックベル家に縁のある者が偶然訪れ、肌身離さず持ち歩いていた紋章付きの指輪を見てもしやと声をかけた。
ようやく、自分が伯爵家の娘だと知ることになったメルディ。
4年の時を経て、無事伯爵家に戻ったメルディは、喜びに沸く両親の元で療養と再教育に一年を費やし、今年社交界デビューを果たした。
その鮮烈なデビューは今年の社交界の全ての話題をさらっていった。
一躍時の人となったメルディ。彼女のその過酷な運命に、周囲はメルディを『時止まりの令嬢』と二つ名で呼ぶようになった。
そんなメルディを、王太子レオハントが極秘に調べてほしいとアランに頼んだ。わざわざ王城に呼び出してまで、一体メルディの何を調べてほしいというのか。
レオハントはアランの前に一枚の封書を置いた。
「私宛の書類にこんなものが紛れ込んでいた」
そこには、誰の字とも読み取れない角張った字で書かれた、一目で読み取れる程短い一文。
『時止まりの令嬢』メルディが、偽者だという。
「これはーー!」
もしもこの投書が本当ならば、社交界に、いや国に新たな騒ぎを引き起こすだろう。彼女の一件で世論は動き、国王は腰を上げ、軍は一時窮地に陥り新たな警備隊が発足したのだ。
死んだと思っていたメルディの四年ぶりの帰還。
図らずも各方面に影響を与えた彼女の存在は、何もお祝いムードだけではない。
上層部の解散を強いられた軍の中には少なからず彼女を恨む者もいるし、一度でも孤児の様な生活をしていた娘を受け入れがたい貴族もいた。
この難しい均衡の中で、新たな問題が生じれば、それを火種にくすぶっていたものがどこで燃え上がるか、過去の様な影響がどこに生じるか分からない。
「あの頃は状況が日々変化し、どこへ落ち着くかも分からない情勢に、私も気を揉んでいたよ。陛下はていよく軍の悪狸共を一掃でき、結果的にはこちらのいいようにできたが……」
王家としては、先手を打つためにも真実を知る必要があるのだろう。
「……」
アランはロックベル伯爵夫妻を思い浮かべた。
あまり社交界に顔を出さないロックベル夫人が夜会に出席した時のことだ。
どこか上の空で挨拶をする夫人に、アランも忘れかけていたメルディの失踪を思い出させた。
世間は関心を失くしても、家族は時が経っても一人娘を失った傷は癒えることなく、失意の中で苦しんでいる。
そんな儚げな夫人に寄り添い、支えていたロックベル伯爵。アランの父と親交があり、ブライトン家によく訪ねていた彼の、以前とは違う痩せて疲れ切った姿にも驚いた。
夫妻の一人娘を突然失った悲しみは、想像を絶するだろうし、その娘が無事帰ってきた喜びは計り知れないだろう。
それなのに、もしもメルディが偽者だったなら……。
夫妻の気持ちを考えると、見過ごせる話ではない。
「本物か偽者か。偽者ならば何が目的か。悪戯でもこんな噂を広めるわけにもいくまい。今のところ私の胸にだけ留めている」
国王にも、臣下にも伝えていない。今アランに打ち明けたのが初めてだというレオハント。
「そうですね。この投書の人物も、悪戯に噂を広める気はないのでしょう。直接殿下に宛てているあたり、回りくどくとも真実を突き止めてほしいという願いが感じ取れます」
「だからこそ信頼のおける君に引き受けてほしいと思ってね」
「……」
王太子の信頼という有難い気持ちを戴いたというのに、尚も答えを渋るアラン。
「その、この手の事に関しては、私ではなくレオンの方が適任では? いつもそのように分担していたではないですか」
ここまで話して尚快諾しないアランに、さすがにレオハントも呆れてため息をつく。
「『女嫌いのアラン侯爵』。君の事情は知っているが、そろそろ克服してもらわなければ実害が生じるのだよ」
「〝嫌い〟じゃなくて、〝怖い〟んですよ……」
それに正確に言えば〝侯爵〟ではなく〝侯爵家嫡男〟であるし、アラン侯爵ではなくブライトン侯爵であるのだが、周囲(主に若い女性)が自分にそう面白おかしく二つ名をつけていた。
しかしまさか王太子の耳にまで入っていたとは。情けなくて誤魔化すように紅茶をすすった。
アランには上に四人の姉がおり、幼い頃から傍若無人に振り回されてきた。
女性という生き物を悪くも正直に目の当たりにしてきたアラン。女性というのは二面性があり、実に怖い生き物であると知った。
レオハントとは年も近く、何故かアランをとても気に入っていた。彼とは幼い頃から気心の知れた友人である。
レオハントは好奇心旺盛で、社交界や市井の話を好んで求めた。王族という自由のない彼の代わりに、アランが足となり目となった。
その幼い頃からの延長で、今ではレオハントの密命を受け、国政に係わる事件を、主に貴族の問題を中心に探ることがあった。
そんなレオハントも、アランの事情を知って、女性が大きく関わることはレオンに任せていた。それなのに、今回のメルディの件だけは、どうしても頼みたいという。
「前宰相からメルディ嬢はかつて君の許嫁だったと聞いたが?」
「それは、お互いの祖父が口約束で交わしただけで正式なものではないです。表立って知られてはおりません」
実際アランはメルディの顔すら知らなかった。
「そうなのか」とレオハントも納得するが、アランの言い訳にも引き下がる気はなさそうだ。
「アラン、私も友人として嫌がる君に無理強いしたくはない。しかし、君はもう21になる。家督を継ぐ君が婚約者を設けず結婚の兆しが一切ない。いつまでも女性を避けるわけにもいくまい。それは君が一番分かっているだろう?」
「……」
レオハントはそれまでの穏やかな雰囲気をがらりと変え、至極真面目にアランの目を見て審判を下した。
「きっかけになればと思っている。アラン、『時止まりの令嬢』の素性を調べよ」
はっきりと命令の形を取ったレオハントに、アランも逃げ場なく「……わかりました……」と小さな声で了解した。
そんな失礼な態度のアランにも、レオハントは懐深く優しい笑顔で頷くのだった。




