65. 緊急事態です
――さて。
世の中、いついかなる時であっても、不測の事態は、突然やってくるものである。
事件が起きたのは、勉強に研究にポーション精製にと、忙しくも穏やかな日々が続いていた、普通の昼下がりのことだった。
『緊急事態発生! 緊急事態発生!』
窓の外から突然、けたたましい鐘の音が響き、直後、拡声魔法による大音量の城内放送が聞こえてくる。
『防衛班は城壁内全域に結界魔法を展開! 動ける者はみな、ただちに防衛班の指揮下へ! 非戦闘員は大広間に避難、緊急時対応へと移行! 繰り返す――』
「な、なに? 何が起きたの?」
「ティーナ、北の森から城に向かって、大きい魔物の気配が近づいてくる! 大広間に避難するよ!」
「ま、魔物!?」
ここに来て初めての緊急事態だ。
私はリアに従って、大慌てで部屋を飛び出した。
「このばかでかい気配は、巨大獣だね。特殊攻撃はなくて、物理でゴリ押ししてくる魔物だけど、とにかく大きいから、複数人で協力戦闘を仕掛けるのが基本」
リアは冷静に気配を探り、私に解説してくれる。
城の廊下は上を下への大騒ぎだ。騎士だけでなく一般の使用人たちも皆、魔法薬や布、桶などを持って駆け回っていた。
「あっ、慌てて出てきちゃったけど、私も作りかけのポーション、持ってくれば良かったかな」
「それなら心配いらないよ。ほら、ウォードが持ってきてる」
「えっ」
リアの言葉に後ろを振り向くと、確かにウォードが、ポーションの入った箱を持ち出してくれていた。
ウォードもリアも、さすがの胆力である。落ち着きをなくしていたのは私だけだったようだ。
「ありがとう、ウォード」
私がお礼を言うと、ウォードはいつも通り、無言で頷いた。
そうこうしている間に、私たちは大広間に到着した。
大広間には、巨大獣と戦って怪我をしたらしい騎士たちが、次々とかつぎ込まれてくる。
「……っ、大変! ウォード、急いでポーションを……!」
「待ちなよ、ティーナ。ほら見て、みんな傷は塞がってて、命に別状はないよ」
「えっ?」
「戦場では、怪我をしたらその場でポーションを使って、治癒してる。あの人たちは、血を失って貧血状態か、魔力が底をつきそうになって戻ってきた騎士たちだね」
リアにそう言われてよくよく見ると、確かに騎士たちはみな落ち着いた様子だし、ふらついてはいるものの、痛がっている人は一人もいない。
私はホッと胸をなで下ろすが――、
「大変だ! もうすぐポーションが足りなくなりそうなんだ! 誰か補充用のポーションを――」
「アンディ!?」
声を張り上げながら大広間に急ぎ駆け込んできたのは、アンディだった。
リアがアンディの名前を呼ぶと、彼はすぐさまこちらを振り向く。
「あっ、リア、それにティーナ!」
「アンディ、ポーションがなくなりそうって、本当?」
「ああ。でも、ティーナがいるなら、話は早いな! 頼むよ、オレと一緒に戦場に――」
「お待ちください、アンディ様」
アンディの言葉を遮ったのは、静かに唐突に現れた、ジェーンだった。
ジェーンは冷たい表情でアンディと私たちの間に立ちはだかる。
「ジェーンさん!」
「アンディ様、戦場の危険性はお分かりでございましょう? 大切な御仁を戦場に送るなど、到底許可できかねます」
「でも、後方なら危険は及ばないだろ!? それに、公爵のギルさんだって戦場にいるじゃんか!」
「主様は、公爵であると同時に、辺境騎士団の長でもございますゆえ――」
「待って、ギル様も戦場にいるの?」
淡々と反論を述べているジェーンを遮り、私はアンディに尋ねた。
「ああ、そうだよ。副団長さんと一緒に、先頭に立って戦ってるぜ!」
「なら、私も行くわ。アンディ、私を戦場に連れて行って」
「クリスティーナ様!」
「お願い、ジェーン」
私はジェーンの茶色い瞳を、ひたと見据える。
負けじと視線を交わし合う私たちの肩に、リアがぽんと手を置いた。
「ジェーンさん、心配いらないよ。あたしとウォードが、必ずティーナを守るから」
「……しかし……」
「ジェーンさんだって、わかってるでしょ? あたしたち、強いから」
リアの後ろで、ウォードもしっかりと頷いている。
いつの間に用意していたのか、彼はポーション箱を抱えていない方の手に、いつも魔物との戦闘で使っていた槍斧を握っていた。
私は二人に頷き返すと、ジェーンにがばりと頭を下げた。
「ごめんなさい、ジェーン。でも、誰が止めようと、私も戦場に行くわ。リア、ウォード、アンディ!」
「うん、行こう!」
「おう、案内は任せろ!」
頼もしい返答に私は小さく笑い、ジェーンに背を向ける。
その際にウォードが抱えている木箱が目に入り、私は声を張り上げた。
「その前に――どなたか、医療班の方は、いらっしゃいますか! 今日作ったポーションを、半分、ここに置いていきます! 誰か怪我人が運ばれてきたら、使ってください!」
「え……作った……?」
「あれ、最近使い始めたポーションじゃないか……?」
私とリアとアンディで木箱の中から合計十二本のポーションを出して、それぞれ手で持つ。
残りをウォードが床に置くと、ざわざわと大広間に戸惑いが広がった。
私はそれを無視し、扉の方へと踵を返す。
木箱に入ったポーションは、きっとジェーンが有効活用してくれるだろう。
「さあ、行きましょう! 三人とも、よろしくね!」
そうして私は、大広間を飛び出した。
急いで向かうのは、戦場の後方。
辺境騎士団が必死に巨大獣を食い止めている、戦いの地――。




