52. 後遺症を治癒します
ウォードさんが私たちの泊まっている宿を訪ねてきたのは、翌日、日が昇ってからのことだった。
「お嬢様、入ってもいいっすか?」
「その声はアンディ? どうぞ、入って」
私が許可を出すと、ジェーンがさっと扉を開ける。
扉の外には、アンディと、三十代半ばと思われる見知らぬ大男が立っていた。
ちなみにジェーンとリアは私と同室、アンディは御者のトマスと同室に泊まっている。
今はちょうど朝の支度を終えて、宿のロビーに併設された食堂へ行こうとしていたところだった。
「あ、ウォード! 来てくれたんだ!」
アンディと大男が部屋に入ると、リアが声を上げた。
アンディの後ろに立つ山のような大男が、巌のような表情のまま、無言で頷く。
どうやら彼が、ウォードさんらしい。
彼の手には、昨日精製した琥珀珈琲を入れていた水筒があった。
リアがアンディと一緒にウォードさんの家へお見舞いに行って、渡してきたものだ。
「調子はどう? それ飲んで、少し良くなった?」
ウォードさんは、再び無言で頷いた。けれど、左足を重そうに引きずっているところを見ると、やはり完治はしなかったのだろう。
ジェーンは扉を閉めると、ウォードさんに椅子を勧めた。彼は目礼し、腰掛ける。
ウォードさんは、水筒をリアに差し出す。
リアがそれを受け取ると、彼は頭を下げた。感謝する、という意思表示だろうか。
「昨日も言ったとおり、この薬湯は、ここにいるお嬢様が用意してくれたものなの。だから、感謝するならあたしじゃなくお嬢様に――って、ウォード、どしたの!?」
ウォードさんの目が私に向けられた途端、それまで全く動かなかった巌のような表情を崩し、彼は大きく青い目を見開いた。
そして、椅子から崩れ落ちるように、慌てて部屋の床に片膝をつき、頭を垂れる。
刈り込まれた短髪が、窓から差し込む光に照らされ、ゴールドアッシュに輝いた。
「え? 何? 何ですか?」
私が驚いて声をかけると、ウォードさんはさらに深く頭を下げた。
「えっと、その……よく分からないんですけど、顔を上げて、楽にして下さい」
突然、初対面の大男に跪かれるなんて、全く意味が分からない。
――ああ、もしかしたら、琥珀珈琲で体調が改善したから、お礼を伝えているつもりなのだろうか。
「えっと、この薬湯のことでしたら、気になさらないでください。昨日、リアかアンディが、南国から輸入した珈琲という薬湯だと説明したと思うんですけど、実は、いくらでも簡単に用意できるんです」
明るい声でそう伝えると、ウォードさんは顔を上げて、首を横に振った。……どういう意味だろうか。
私は困って、リアとアンディを見た。
「ああ、もしかして、ウォードさんは本物の珈琲を飲んだことがあるのか?」
アンディがぽんと手を打ってそう尋ねると、ウォードさんは頷いた。
「そうだったの? だから昨日、ちょっと戸惑い気味だったんだね」
ウォードさんは、再び頷く。そして、膝を床に着いた姿勢のままで、少し首を傾げた。どうやら、琥珀珈琲の正体を知りたいようだ。
「ウォードさん、秘密は守れますか……って、聞かなくても間違いなく口は堅そうですね。なら……この薬湯の正体を説明する前に、もう一度椅子に座ってもらえますか?」
ウォードさんはためらいがちに頷くと、リアとアンディに支えてもらいながら、椅子に座り直した。
ジェーンは気を利かせて、カーテンを閉めに行ってくれている。
「痺れが残っているところや、痛むところはどこですか?」
ウォードさんは、右手の人差し指で、左腕と左足を指し示した。左半身に麻痺毒を受けたのだろう。
「わかりました。少し、じっとしていて下さい」
私はウォードさんの左側に回り、彼の左半身に手をかざす。そうして目を閉じ、聖なる魔力を手のひらに向けて練り上げていった。
「癒しの光よ――お願い、彼の身体を癒して」
祈りを込め終えると、私は瞼を開いて、治癒の魔力を放った。琥珀色の魔力が幾筋もの曲線を描いて、彼の腕や足を包み込んでいく。
ウォードさんは目を細めて、琥珀色の光を眩しそうに見つめていたが、その表情はみるみるうちに驚きに変わっていった。
「……ふう。終わりました」
治癒を終えて魔法を止める。
ウォードさんは、信じられないといった表情をして、手足を伸ばしたり指先を握ったり開いたりしていた。
「痛みや痺れは、どうですか?」
ウォードさんは質問に答えるかわりに、椅子からスムーズに立ち上がって、再び私の前に跪いた。
今度は崩れそうになりながらではなく、スッと姿勢を正し、流れるように。
「あ、あの、ウォードさん、いいですから……」
私は両手を自分の顔の前で横に振るが、彼は騎士流の最敬礼をやめてはくれなかった。
そればかりか、彼は腰に差していた短剣を鞘ごと外して両手の平に乗せ、私の方へ差し出している。
短剣は鞘からして、見るからに立派な物だ。鞘には、何かの本で見たことのある紋章が彫られていた。
「――騎士の誓い、でございますか」
ジェーンが、静かな声でウォードさんに問う。
彼は青い瞳に強い決意を宿して頷き、私の目をじっと見た。
「騎士の誓いって……どうして、初対面の私に?」
騎士の誓いとは、主人と認めた人に唯一の忠誠を約束するというものだ。
主人の危険には自らが剣となり盾となり、生涯守り通すという誓い――騎士にとっては、自らの命よりも重い、絶対の約束である。
きっと、ウォードさんは、今は冒険者をしているが、元々は騎士だったのだろう。
だが、いくら今は騎士ではないと言っても、その誓いの重さは変わらない。決して、初対面の人間においそれと誓って良いものではないはずだ。
ウォードさんは、ゆるく首を横に振ると、視線を落とした。その眼差しは、剣の鞘に彫られた美しい紋章に向けられている。
「えーと……、もしかして、初対面じゃなかった……ですか?」
「……この紋章は……確か、南方に位置する隣国の?」
ウォードさんは、スッと顔を上げて、首肯した。
その肯定は、私とジェーンのどちらに対してか、あるいは両方に対してか――はっきりと読み取ることはできなかった。




