35. 怖れ ★ギルバート視点
引き続き、ギルバート視点です。
――*――
その後ジェーンには通常業務は休止し、腰の状態をきちんと様子見するよう言い渡した。実質、今日はもう休めと言う命令である。
ジェーンを見送ってから寝室の方へ戻ると、なんとクリスティーナ嬢はすでに目を覚ましていた。
ベッドから下りて、シーツのしわをどうにか伸ばせないかと頭を悩ませている。
その様子はとても愛らしいが、ノックもせず部屋に戻ったせいで、ひどく驚かせてしまったようだ。私は謝罪しつつ微笑んだ。
体調はもう良いと彼女は言ったが、その実、顔色はまだいつもより白い。それなのに、彼女は自分が倒れてしまったことを謝り、すぐに仕事に戻ろうとしている。
「少し落ち着け、クリスティーナ嬢」
苦笑しながら彼女をなだめる。
じっと見つめていると、少しだけ頬に赤みが差してきたが、やはりまだふらつきがあるようだ。
それなのに彼女は、倒れる前と同様に、自分の体調よりもジェーンのことを心配していた。
だが――休みを取るようにと告げると、彼女の態度が急変した。
うつむいた拍子に薄紅色の髪がさらりと肩口にこぼれ、空と同じ美しい青色が、みるみるうちに潤んでいく。
「わ、私……、休むなんて……、これじゃあ本当に……」
いつも明るく振る舞っているクリスティーナ嬢。
彼女の弱い部分を垣間見て、私は一瞬、息を止めて彼女を凝視した。
身体の芯から、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような衝撃と、鋭い緊張が走る。
――彼女は、休み方がわからなかったのではない。休むのが怖かったのだ。
本当は誰よりも強い治癒の力を持っているかもしれないのに、神殿からは無能と断じられて。
神殿の雑事を全て、ほぼ一人で引き受けていたのに、誰からも感謝されることも顧みられることもなく。
自尊心も、人としての尊厳も踏みにじられて、ただただ搾取され続けてきた結果――クリスティーナ嬢は、ようやく手に入れた『人として普通の生活』を手放したくなくて、休むに休めなかったのだ。
「……大丈夫だ。休むのは怖いことではないよ」
私はクリスティーナ嬢の、細く白い指先を、そっと持ち上げる。
彼女の手は冷たく、少し震えていた。
彼女に必要なのは、自分をまるごと全て認めて受け入れてくれる、安心できる場所。
信頼できる人間。
裏切られないという保証。
私は心を尽くして、彼女に語りかける。
真摯に、根気強く。
クリスティーナ嬢が安心してその身を、そしていずれは心を預けてくれるような、そんな存在になれたらと願って。
「ギルバート様……私……ごめんなさい」
こぼれた涙を指先で拭うと、そのまま彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
しかし――それは出来ない。望んではだめだ。
私は彼女の雇用主だ。安心できる場所を求めている今の彼女は、私が望めば、自らの望みに反して何でも受け入れてしまうだろう。
彼女の安心を、信頼を、自ら裏切り壊すような真似だけは、絶対にしたくなかった。
それに――そもそも私のような化け物には、誰かを愛する資格など、ないのだから。
「構わないよ、クリスティーナ嬢」
本当は、先ほどのようにティーナと呼びたい。
ぎゅっと抱きしめて、優しく髪を撫でたい。
今にも壊れそうな彼女を、この腕に閉じ込めて、甘やかしてやりたい。
けれど、どうしても怖いのだ。
結局私も、クリスティーナ嬢と同じものを、欲している。
私には、彼女の気持ちが、痛いほどよく理解できた。
*
しばらくして落ち着いた様子のクリスティーナ嬢を帰し、離れの小部屋へ入ったことを遠視魔法で確認してから、私は気になっていたことを試すことにした。
幸い、急ぎの公務もない。私は、以前受け取っていたクリスティーナ嬢の初級ポーションと、今朝作ってもらった琥珀珈琲を棚から出した。
「……やはり、ポーションの方は色褪せているな」
本来なら、ポーション類の効果は、時間が経っても減衰しない。液体中に溶け込んだ触媒が、しっかりと魔力反応を促進し、魔力を定着させるからだ。
私は初級ポーションに匙を入れて、それを少しだけ掬って舐める。琥珀珈琲に比べてかなり苦いが、その奥に薬草のえぐみや魔法薬素材の香りは感じられない。
「クリスティーナ嬢は、魔力定着用の触媒を使わずにポーションを精製しようとしていたのか」
思えば、あれからポーション瓶は何度か求められたが、薬草などの素材を彼女から要求されたことは一度もなかった。
各種ポーションにどのような素材が使われているのか、そしてその配合がどのようになっているのかは不明だが、それが分かればクリスティーナ嬢も中級以上のポーションを精製できるかもしれない。
「神殿の取引記録を調べれば、手がかりが得られるかもしれないな」
現在は、ザビニ商会とその関係者が神殿との取引を独占している。だが、現在の筆頭聖女が神殿との関わりを深める以前の記録であれば、持っている伝手が利用できるかもしれない。
思考を深めていると、ノックの音が響く。いつの間にか昼を回っていたようだ。
私は急いで扉に向かい、大きく開いた。
「クリスティーナ嬢か? 体調は――」
「申し訳ございません。わたくしでございます」
目の前にいたのは、ジェーンだった。手には、昼食のトレーが載っている。
「ジェーンだったか。その後、腰はどうだ」
「ええ、おかげさまで、すっかり痛みが消え去っております」
「そうか、良かった。念のためもう少し――」
「わたくしは、休みませんよ」
「……そうか」
私はそれ以上何も言わず、ジェーンからトレーを受け取った。
「食事の用意をしてくれて助かった。ありがとう。それと、もし可能なら……」
「ご心配なく。先ほどアンディ様がいらっしゃったので、クリスティーナ様の分のお食事も、離れの大部屋にお持ちいただくようお願いいたしました」
「なら良かった。……そうだ、ジェーン。クリスティーナ嬢の例の力に関して、私から一つ提案がある。後でいいから、時間をもらえるか」
「ご提案、でございますか? ご命令ではなく?」
「ああ」
聖女の力に関する事柄は、クリスティーナ嬢の心の芯に触れる、繊細で重要な話だ。
私の独りよがりの説明では、彼女を傷つけてしまう可能性もある。ジェーンの意見も聞きたかった。
その後。
ジェーンと話し合いをした結果、クリスティーナ嬢に力のことを伝えるのは翌日の夕方と決め、私たちは各々準備をすることになったのだった。




