22. 一人の夜は、とても長いです
沈みゆく夕陽が、静かな部屋に橙色の線を幾本も引いている。
離れの大部屋は、一人きりで過ごすにはやはり大きすぎて、私には分不相応だ。
「なんだか、静かで……ちょっと寂しいな」
ぽつりとこぼれた私の言葉は、どこにも届くことなく、物悲しげなオレンジに吸い込まれていく。
自室で湯浴みを終えて大部屋に戻ったけれど、今日はもう、『視線さん』の気配も感じられない。
ギルバート様は今頃、どのように過ごしているのだろう。
「もう私は信用されているから、『視線さん』の魔法は必要ない……って感じなのかな? 思えば最初から見られてたような気もするし、私がギルバート様とお会いした後は、アンディの方を主に観察してたみたいだし」
私がこの屋敷を訪れて最初に視線を感じたのは、門の前に立って「ごめんください」と声をかけた時だ。あの時はなんとなく見られているようで不気味な感じがする、という程度だった。
私が視線さんからはっきりとした意思を感じたのは、もっと後――私が持ってきた失敗ポーションで、アンディと一緒に休憩を取っていた時だったように思う。
今思えば、あの時ギルバート様は、ずっと探していた琥珀色のポーションを見つけて動揺し、私に気取られるほど凝視してしまったのかもしれない。
「それにしても、ギルバート様はどうして琥珀色のポーションを探していたのかしら」
神殿には、私以外で琥珀色の魔力をもつ聖女様は、いなかったはずだ。もし彼が琥珀色のポーションを手に入れたことがあったのだとしたら、王都の外で入手した可能性が高い。
なぜなら、私が作れるのは初級ポーションだけだからだ。普通に考えれば、財力のあるギルバート様なら、初級ポーションなどではなく、効果の高い中級ポーションを普段から購入しているはずである。
「琥珀色の魔力を持つ聖女様……教会におつとめの方の中に、いらっしゃるのかな?」
王都以外で聖女と神官が詰めている場所は、基本的には教会と呼ばれている。女神様の教えを広め、民が祈りを捧げるための施設だ。聖女が一人か二人程度常駐し、怪我人や病人の治癒に当たっているほか、孤児院も併設されている。
孤児院に聖属性の魔力を持つ子が現れた場合、その子は神殿に送られ、聖女としての教育を施されることになる。私は直接王都の神殿で拾われたが、聖属性の魔力を持っていなかったら、教会に併設の孤児院に送られていただろう。
一方、神殿は女神様がおわす場所――正確には、女神様が地上に降りて来られた際に、お住まいになっていた場所だと言われている。
女神様はかつて、このメリュジオン王国の建国に関わったとされていて、そのため王宮と神殿の距離も近い。現在の筆頭聖女様が王太子殿下と婚約しているのも、それが理由だ。
神殿には祭壇があり、毎日欠かさず、聖女様や神官様たちが祈りを捧げている。各地にある教会の総本山といったところだ。また、聖女たちの教育施設も兼ねている。
ちなみに一般市民が祈りを捧げる場所は別に設けられていて、神殿の最奥に設置されている祭壇は、通常、見ることができない。
同様に、治癒を受けられる場所も神殿の入り口側にある。そのため、治癒に当たることのない見習い聖女たちは、一般人の目に触れることはないのだ。
「うーん、やっぱりわからないなあ。『あの時救ってくれた聖女』とか、『やっと見つけた』とか、ギルバート様はそう言ったけど……私、一般の人と会うことはなかったし」
それに、ジェーンさんの言葉も気になる。
――琥珀色の聖女。三年経って、偶然再会できた。
ジェーンさんはそう言ったが、三年前の私は神殿の雑事をこなしているだけの、無能聖女だった。
「神殿の周りを掃除してる時とかに、困ってる人に声をかけることはあったけど……」
道に迷っている人や具合が悪そうな人などに声をかけて、道案内をしたり神殿の中に連れて行ったりする機会は確かにあった。
そういえば、その場で少し休ませてほしいと言う人に、「元気が出るから」と失敗ポーションを渡したことも何度かあった気がする。まあ、とはいえ、ほとんどの人に「得体が知れない」と断られてしまったのだが。
けれど……もしかしたら、ギルバート様がその中の一人で、私の失敗ポーションを受け取ってくれていたのだとしたら?
彼なら、病気を治療する手段を探るために、神殿に通っていてもおかしくはない。その時に神殿まで辿り着けずに休んでいたところに、私が声をかけた可能性もある。
「んー……でも、三年前……。その頃は領地にいらっしゃったはずだし、困ってる方の中に貴族らしい身なりの方はいなかったと思うし……やっぱり違うか。あー、考えてもわからないし、もうやめよ」
私は考えるのも思い返すのもスッパリやめた。悩んで答えが出るわけでもないのだ。
私は気持ちを切り替えるように、窓を開けた。夕方から夜に変わる時間特有の、どこか温くて少しひんやりとした風が、部屋の淀んだ空気と入れ替わっていく。
「さて、ポーション作ろっかな」
あれこれと悩むより、ポーションでも作って有意義に過ごす方がいい。
私は棚から空き瓶やグラスを取り出し、いそいそとポーション精製の準備を始めたのだった。
*
それでも結局、その日の夜は、とても長かった。
夕方前に仕事を終えて、ポーションを作って、夕食を温め直して食べて……それでもまだ、普段寝る時間よりずっと早くて。
「……眠れないなあ」
ベッドから起き上がり、光に導かれるように窓の方へと向かう。
カーテンを開くと、灰白色の月が、地上に優しい光を落としていた。今宵は上弦の月らしい。
「――雨は川へ、川は海へと。海は雲へ、雲は空へと」
窓枠に肘をついて、私は小さく口ずさむ。
「――旅路の果てに、雲は泣く。涙は雨に、雨は大地へ」
窓から少しだけ身を乗り出すと、三階の窓が細く開いているのが目に映った。ギルバート様の寝室がある場所だ。
今日はもう休んでいるのだろうか。明かりは完全に落とされていて、揺れるカーテンには何の影も映っていない。
「――水は巡る、愛も巡る、命も巡る。全て巡りて、自らへ還る」
手を伸ばしても届かない、遠い記憶の彼方。母が歌ってくれた子守歌は、今や自分のお守りになっている。
嬉しいときも、楽しいときも。悲しいときも、辛いときも。この歌を口ずさみながら仕事をしたものだ。神殿にいた頃からずっと――。
「――愛は巡る、自らへ還る。命も巡る、とこしえに巡る……」
異国の響きが紺色の夜に溶け消えていくと同時に、不安も寂しさも和らいでいく気がした。




