(40)母と姉
まずは、羅針盤に関しての話が無事に終わったことで、カイトはもう一つの交渉を進めることにした。
それが何かといえば、絹と絹糸のことである。
「――実は、公爵にお話をしたいことは、もう一つあります」
「ほう? 聞こうか」
羅針盤だけで話が終わったと思い込んでいた公爵は、興味深げな表情になってカイトを見た。
そして、新たな話を始めたカイトを見て、横に座っているガイルが驚いていた。
それも無理はなく、事前の話では羅針盤の話をするということだけを聞いていて、もう一つあるなんてことは聞いていなかったのだ。
そのガイルが驚く一方で、クリステルは父親と同じように何を話すのかと面白そうな顔をしていた。
三者三様の視線を感じつつ、カイトは再び鞄の中に手を入れて、絹と絹糸の現物を取り出した。
「実は、これもコンから広めるようにと頼まれているのですが、ご確認いただけますか?」
「ふむ。見ようか」
公爵はそう言って頷いて、カイトから絹と絹糸を受け取った。
カイトが公爵に渡した絹糸は、航海中についにできた繭を糸にしたものだ。
ただし、まだ布にできるほどの量はできていなかったので、今回出した絹は交渉用にとフアに用意してもらった。
あくまでも交渉用なので数に限りがあるため、今後はきちんと工房を用意するなりして生産をしていかなければならない。
こうしてカイトが公爵に見本を出した主な目的は、目が肥えているはずの貴族の反応を見ておきたかったためだ。
カイトが出した絹糸と絹を受け取った公爵は、まず糸の方から確認をし始めた。
「…………ふむ。私には糸の良し悪しはよくわからないが、よさそうに見えるな。クリステル、見てみなさい」
「いいのですか?」
「私よりも詳しいであろう? 良いから見てみなさい」
公爵はそう言って絹糸をクリステルに渡しながら、今度は絹を見始めた。
「こっちは、その糸を使った布ということでいいのかな? 随分と手触りがいい気がするが」
「はい。そうなります」
公爵の問いに、カイトははっきりと頷いた。
カイトの答えに、公爵は「そうか」と普通の表情で頷くだけだったが、糸の時と同じように布を渡されたクリステルの反応は違っていた。
「――お父様、お母様を呼んで来た方がいいですわ」
「ほう? そこまでの物か?」
「私には、はっきりとそれが断言できないので、きちんと見てもらったほうがいいかと」
「そうか。ではそうしよう」
娘の言葉に、公爵は表情を変えることなく頷いた。
公爵は、自分自身がこれらの価値について、そこまで精通しているわけではないことを分かっているのだ。
だからこそ公爵は、自分よりも詳しいと思われるクリステルの意見を尊重したのである。
♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦
公爵の指示に従った家令が連れてきたのは、クリステルを大人な感じにして、もう少し穏やかな雰囲気を纏った女性だった。
目元の感じや鼻立ちなどはよく似ているので、説明されなくてもその女性がクリステルの母親であることはわかる。
さらに、その女性の後ろには、さらにもう一人の女性が着いて来ている。
その女性もまたクリステルとよく似ていて、さらに年齢も先に入ってきた女性よりも若く見えた。
最初に入ってきた女性が母親だとして、二番目に入ってきた女性がクリステルとどういう関係なの話からずに内心で首を傾げているカイトだったが、その答えはすぐに得ることができた。
「オレリアお姉様も来たのですか?」
クリステルが驚きながらそう言うと、二番目の女性が口元に笑みを隠すように手を当てながら言った。
「あら。わたくしが来てはいけなかったかしら?」
「そういうことではありませんわ。ただ、オレリアお姉様までいらっしゃるとは思いませんでしたから」
誤魔化すようにそう言ったクリステルに、オレリアは目を細めながらホホホと笑った。
その二人のやり取りを見ていた公爵は、多少呆れたような表情になった。
「二人ともいい加減にしなさい。まだお客人に紹介もしていないのだぞ」
公爵がそう言うと、クリステルとオレリアは同時にぴたりと口を閉じた。
ちなみに、先に入ってきたクリステルの母親らしき女性は、最初から見せている穏やかな表情のまま様子は変わっていない。
公爵は、その女性を示しながらカイトとガイルに向かって言った。
「失礼をして申し訳ない。こちらが私の妻であるアリアンヌだ。それから、こっちはクリステルの姉でオレリア」
公爵がそう二人を紹介すると、アリアンヌとオレリアはほぼ同時に貴族としての礼をしてきた。
それに対して、カイトとガイルもしっかりと挨拶を返した。
その後、公爵がカイトとガイルの紹介を二人にして、すぐに本題へと入った。
「こちらが話にあった糸と布ですか。……確かに、これまで見たことが無い気がしますね」
「お母様。気がするのではなく、これは明らかに今までどこにもなかった布ですわ! しかも、手触りといい見た目といい、皆が好みそうな品ですわ」
この場合、皆というのは当然のように貴族の夫人や淑女を指している。
オレリアが敢えてそういう言い方をしたのは、カイトが持ってきた絹(と絹糸)が、完全に貴族を相手にできる価値があると認めているからだ。
そして、オレリアのその言葉を聞いたアリアンヌは、すぐに頷き返しながら言った。
「そうですね。問題は、どれくらいの量が手に入るかということですが……いかほどです?」
いきなりそう言ってきたアリアンヌに、カイトは少し慌てながら答えようとしたところで、公爵が割って入ってきた。
「こらこら、二人とも少し落ち着きなさい。……オレリアはともかく、アリアンヌまでそうなるとは思っていなかったぞ?」
「あら。いい物を拝見できれば、こうなるのは当り前ですよ」
「お父様、わたくしはともかく、とはどういうことかしら?」
公爵の物言いに、アリアンヌとオレリアがそれぞれそう返してきた。
オレリアの表情が微妙に引きつっているように見えたカイトだったが、クリステルとアリアンヌが何の反応も示していなかったので、気付かなかったふりをした。
そして、オレリア本人の視線をまともに受けていた公爵は、特に気にした様子もなく言った。
「とにかく、今はまだ商品としてどう扱うかという段階ではない。まずは、どのくらいの価値があるのかということを詳しく知りたかったのだが……二人の様子を見る限りでは、あまり心配する必要はなかったようだな」
「勿論です。糸はともかく、布として売ればすぐに買い手は着くでしょう。というよりも、わたくしが欲しいですね」
多少食い気味にそう言ってきたアリアンヌに、公爵は顎をさすりながら頷いた。
「そうか。お前がそこまで言うのか。――――ということだが、どうだ?」
後半は、自分に視線を向けて言ってきた公爵に、カイトは少し考えるような表情になって言った。
「まず、そちらの糸と布は差し上げます。そのために持ってきたのですから。ただ、まだ衣装に変えて着るのは止めたほうがよろしいでしょう」
「なぜだね?」
「まだ、量をさばけるほどの生産能力がありません。それに、独占されて困るのは、こちらも同じですから」
羅針盤のときと同じようにコンが関わっていることを匂わせたカイトに、公爵も難しい顔になって頷いた。
「こちらもそうなのか。となると、確かにいきなり表に出すのは得策ではないだろうな」
カイトの言い分にあっさりと頷く公爵に、これまでの話を聞いていなかったアリアンヌとオレリアが一瞬驚いたような顔になったが、すぐにそれも収まった。
公爵は勿論、クリステルも当然のような顔をしているので、何か理由があるのだとすぐに察したのだ。
ただの平民が持ってきた価値のある商品というだけでは収まらない理由があるとなれば、それは政治的な理由であり、自分たちの意見を押し通すわけにはいかないと分かっているのである。




