9
夕暮れは思いのほか早く訪れた。
楽しい時間が、時間の感覚を乱す。
もう?と思う頃には、黄昏が降りて、空は茜色に染まっていた。
道の脇に連なるように置かれている硝子の洋盃や皿の上に置かれた蝋燭に、町の人たちが火を付けて回る。蝋燭の長さも大きさも、色も、受け皿である食器もまちまちで統一感はない。だが、そんな手作りの感じがをどこか微笑ましい親しみを感じさせた。
蝋燭の芯に灯されたオレンジの光が道端に揺れる。
一つ一つの行動を追っていたリュクレスの、部分的に集中していた視野が伸びていく道に広がる。
街が夜の帳に包まれた瞬間。
町の中の全ての道が、幻想的な光で輝いていた。
町全体がその朧げな光に浮かび上がる。
まるで教会の聖堂の中のような、それは清らかな美しさだった。
「街の光は空への祈りだそうです」
ぽつりとヴィルヘルムが言った。敬虔な思いが、空へと向けられる。
「……綺麗ですね」
声が詰まるほどの感嘆に、リュクレスが紡げた言葉はたった一言だった。そこに内包された信仰に、深く静かに頭を垂れた。
太陽が落ちて薄暗くなった町を、慣れない町とは思えないくらい迷いのない足取りで、ヴィルヘルムはリュクレスを誘う。
向かう先は、町を出てほど近い高台のようだった。
「手を。もう、暗いから。エスコートさせてくださいね」
ヴィルヘルムは自分の肘に、リュクレス手を添えさせる。
町の郊外は、祭りの最中とは思えないほどに静寂に満ちていた。
すれ違う人はだんだんと減って、小高い丘の上に登りきると、そこには二人だけで誰の姿もないようだった。
「ふふ、二人きりになれましたね」
薄暗さに視野が効かなくなってくる。隣にいるヴィルヘルムの顔さえ、うっすらとしか見えないが、触れ合う温もりが、リュクレスを不安にはさせなかった。
「ここはとっておきの秘密の場所なんです。町の人はこの日にわざわざ町から出ませんから。私も偶然、この町から帰る時に見つけたのですが」
ほらと、指差す方をみれば、町が綺麗に浮かび上がっている。まるで地上の星空のようだ。
「うわぁ…」
「静かですが、とても美しい祭りですよね」
穏やかに語られる言葉は、まるで吟遊詩人の詩のように、耳に心地よく、いつの間にかリュクレスは彼の言葉に聞き入っていた。
「星祭りは、神への信仰です。眠る狼へ向けた平和への祈り、だそうです」
「冬狼さまへの?」
「ええ」
「アズラエンの中には冬狼に由来の地域が結構あるものですね。私も初めて知りました」
その言い方が可笑しくてリュクレスは笑い声を漏らす。
「冬狼将軍様なのに?」
「ええ、冬狼将軍なのに、です」
彼が無神論者であり教会に疎遠であると、それは事実なのだろう。それでも、ヴィルヘルムはリュクレスを喜ばせようとし、同じものを見るために、冬狼を知ろうとしてくれる。
それをどうして喜ばずにいられよう。
「寒くはないですか?」
日が落ちると、途端に温度が下がり始めた。風もどこか冷たい。
リュクレスの触れた指先が少し冷たくなっているのに気が付いて、ヴィルヘルムが腕の中へと引き寄せる。
「大丈夫です。今は、暖かいです」
身を寄せ合うその温もりに、秋風など気にならない。
頭上で、きらりと何かが落ちた気がした。
「?」
リュクレスは空を見上げた。
濃紺の夜に、飲まれそうなほど深く、布が折り重なるように複雑な色合いを見せる空。
月がない。
満天の星が美しい。星の瞬きに目が離せなくなる。
飲まれるような暗闇で、オレンジの光が唐突に空に流れた。
流れ星だと、声にする前に。
一つ、二つ、三つ…数え切れない輝きが、雨のように降り注ぐ。
流星群だ。
「うわぁ…」
空が、落ちる。
厳かな静謐、空一面を染めるオレンジ色の焔の矢。
視覚はひどく騒がしいのに、周囲を包む静寂に、男の声が響いた。
あまりの感動は、恍惚として忘我の境地に近い。
ぼんやりとした思考を、男の眼差しと声が捕らえた。
引き寄せるように、リュクレスの視線を、心を空から引き戻す。
夜とは思えないほどに明るい空の下。
流星の輝きが、ヴィルヘルムの表情を照らし出した。
灰色の瞳が光と暗闇の中で、銀に煌めく。
「リュクレス」
名を呼んで、その手を取り、男は跪いた。
愛おしい女性の前に膝を付く、その意図を娘は理解できていないから。
真っ赤になりながら、リュクレスは慌てたようにその場で座り込み、ヴィルヘルムに視線を合わせた。
なんとも、初々しい姿が可愛らしく、思わず笑いかける。
小さな手を引き寄せ、その甲にそっと口づけを落とした。
ゆっくりと顔を上げ、彼女を真っすぐに見つめる。
赤く染まるリュクレスの頬。潤む瞳に、抱きしめたい感情を押し留める。
「結婚してほしい」
情熱的な光を瞳に浮かべ、真摯に娘の愛を乞う。
求婚の言葉はいろいろ考えたのに口をついて出たのは、何とも単純で率直な言葉だった。
戸惑うような思い、泣きそうな、嬉しそうな、いろいろな感情が交差する瞳。
藍緑の瞳がオレンジ色の光を灯して、その幻想のような瞳に彼女が消えてしまうのではないかと不安になる。掴んだままの手を離せずに、ヴィルヘルムはじっと返事を待った。
少し緊張したように、急かすことなく忍耐強く待つ男に、彼の小さな花はそっと抱きつくようにその首に腕を回した。
「はい」
鼓膜を揺らす彼女の声、吐息が耳に触れ、細いその身体の柔らかさに、ヴィルヘルムは胸を揺さぶられる。
「…それは、反則だろう」
もたらされる深い安堵と、こみ上げる歓喜に。
苦笑しながらも、今度こそ我慢せず、ヴィルヘルムはその細い身体を抱きしめた。




