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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
戀―いとし、いとしという心―
51/242

10



離宮に作った即席の執務室にこもっていた男は書類から顔を上げた。

燭台の短くなった蝋燭を見て、だいぶ夜が更けてきたことを知る。

経過した時間の割に、執務机の上の書類は、先ほどからまともに減っていない。

「これではアルに文句が言えないな…」

ヴィルヘルムは椅子にもたれ掛かり、天井を仰いだ。

男の集中力を乱すのは、あどけない微笑みを浮かべるあの娘。

「…君は、どんな顔をして笑っていたのか、わかっていますか…?」

静かに頬を濡らしたリュクレスのあの儚い微笑みに、どうして手を伸ばさずにいられよう。

美しさに涙したなど、明らかに嘘だと分かるのに、あの傷ついた微笑みの意味が分からない。

「君を喜ばせたくて、あの景色を見せたのに」

スヴェライエを本当に美しいと思ったのは、リュクレスにその話をした後のことだ。

王城と湖の景観が美しいのは知っているが、ヴィルヘルムにとってはそれだけだった。

初めて、あの城を、湖を風景として見た。

美しいと感情で思う、情緒が自分にあると知って苦笑し、リュクレスならどんな反応を見せてくれるだろうと、そう思うだけで胸が暖かくなった。

あの景色を見て、笑顔で喜ぶ姿が見たかった。

だが、実際には彼女は途方に暮れたように…涙を流した。

泣かせたいわけじゃないのにと、思うようにいかない苛立ちがつのる。

無理に笑ってほしいわけじゃない。

あの無邪気な微笑みが欲しいのに。

手に入れると決めてから、それこそ、あの子が遠ざかっている気がする。

ヤン・フェローの忠告が、またヴィルヘルムを苛立たせる。

彼はヴィルヘルムにとって4つ年上の幼馴染だ。30歳と言えば男盛りの頃のはずだが、怠惰な雰囲気は彼をどこか老成して見せる。

ひねくれもので我関せずの性格の奴が、こんなふうに口を挟んでくるとは意外だった。

それほどに、ヴィルヘルムの行動がわかりやすく映っていたとしたら、それはそれで忌々しいことこの上ないのだが。

「あの子を手放す気はあるのか?」

「ない」

真っ先に聞かれたことに即答で答えれば、年上の幼馴染は皮肉気に片方の眉を釣り上げた。

「じゃ、どうやって傍に置いておく気だ?」

「お前には関係のないことだろう?」

関わってくれるなと直接的に伝えれば、幼馴染は遠慮の欠片もなく、鼻で笑う。

「ないと言えばないが、あると言えばある。俺はあの子の主治医でな。医者としてひとこと言わせろ。治療終了とあの子に伝えた。お前も聞いてたな?」

「ああ」

ざっくばらんな物言いに頷きながら、聞く前からヴィルヘルムには嫌な予感しかしない。

「怪我も治ったから、これ以上は迷惑かけられない。自分の居場所に帰らないと、だとさ」

ひやりと冷たいものが胸を撫でる感覚が、酷く不愉快でヴィルヘルムは顔を顰めた。

「……まだリハビリが残っているだろう」

「あの子にとって、それはお前の傍にいるための言い訳になっちまうんだろう。お前の傍に居ることに後ろめたさを感じている。故郷に帰る気でいるようだが、聞かなかったことにしといた方がよかったか?」

にやりと笑うヤンに、ヴィルヘルムはため息を付いた。

「余計な世話と言いたいが…話してもらって助かった」

「で?どうする気だ?そのまま厚意に甘えている気はないみたいだぞ?あの子はお前の元を去る気でいる」

茶化すわけでもなく、ヤンは相変わらずだらしなく座ったままヴィルヘルムの方を見た。

「引き留めるならば、お前がするべきだ」

「わかっている」

それ以上、返す言葉がヴィルヘルムは出てこなかった。

離宮というこの鳥籠は、いつの間にかヴィルヘルムを安心させていたらしい。

逃げ出すこともなく、他の誰かに狙われることもない。そしてリュクレスがヴィルヘルム以外の人物と接触する機会を奪っておけば、彼女が誰かに魅かれることもない。

けれど、鳥籠の鍵は、開いているのだ。それに鳥自体が気付いてしまえば、空に飛び立とうとするのを止める術は、ヴィルヘルムには強引なものしか残っていない。

逃がすという選択は、最初からないのだから。

「…傍にいてくれと、懇願してみようか」

一人になって、ようやくその答えを口にする。

それとも、いっそ本当に閉じ込めてしまおうか。

こんなふうに、彼女が断ることができないような言葉で縛り付けるか、囲いの中に捕らえて逃がさないようにするか。

…それでは彼女が笑えなくなるとわかっているのに。


コンコン


軽いノックの音は、ヴィルヘルムに来訪者が誰か、容易く予想させた。

タイミングが悪過ぎると、ヴィルヘルムはため息をつく。

まだ、いつものように冷静ではいられないのに。

それでも、廊下に立ち尽くす娘を想像すると、扉を開けないという選択肢は存在しない。

素早く立ち上がると、扉へ向かう。

開けた扉の外には、予想通り寝衣の上にショールを羽織ったリュクレスが居た。

緊張したような表情は強張っていて硬い。

だからこそ、リュクレスの来訪の意味が理解できてしまった。

ヴィルヘルムには叶えられない、いや、叶えたくない望みを伝えに来たのだと。

やるせない思いを隠し、優しく笑いかける。

「こんな時間にどうしたのですか?今日は疲れたでしょう?早く寝た方が良くないですか?」

言わせたくない感情に、言葉はまるで流れる様に口を衝いた。

ヴィルヘルムが話を遮るような話し方をすることは珍しい。

リュクレスは何か言いかけて、口ごもり、…言葉を飲み込んだ。

作り笑いを浮かべて、ぺこりと頭を下げる。

「…そうします。お邪魔してすみませんでした。おやすみなさい」

「待ちなさい」

わざわざ部屋までやってきたのに、本当に彼女は何も言わずに戻る気なのだ。

ヴィルヘルムは肩を落として、自室に戻ろうとする小さな背中を引き止める。

振り返るリュクレスに、一歩近づいた。

「部屋まで送ります」

ひとりで帰したくなくて、いつものように抱き上げようと腕を伸ばした。

それは柔らかく肩を押し返したリュクレスの手で止められる。

「ダメです。リハビリになりませんから、自分で帰ります。たった二部屋向こうに戻るだけですから」

彼女がそう言って、おずおずと笑うから。


―――歩けなくなればいい


ヴィルヘルムは、本気で思ってしまったその衝動を押し殺す。

ヤンの言葉が、真実味を持ってヴィルヘルムの中で木霊する。

離れていこうとする娘を目の当たりにして、予想外に…動揺が大きい。

あえかな花のような娘は、振り向かずここを去ることが出来るのだ。

努力の末に、聡い娘に気がつかれないよう、ヴィルヘルムは感情を抑制し、淡々として頷いた。

「…分かりました。手は出しません。ただ、せめて君が無事部屋に戻るまではここで見送らせてください」

「はい」

彼女は礼をすると、ぎこちない動きで身を返す。

壁に手を付きながら、一歩一歩ゆっくりと確実に歩を進める背中を見つめる。

弱々しく見えて、彼女は誰かに寄り掛からないと立っていられないほど、弱くはない。可憐な花は、野に咲く花のように強かさも持ち合わせている。

踏まれても一人で立ち直る道端の花のように、たおやかでありながら、強い。

手を伸ばしそうになるのを堪えていることなど、リュクレスは気が付いてはいないだろう。

奪い取りたい衝動を持って、彼女の背を見つめていることなど知るはずもない。

少しずつ離れてゆく距離が、これほどに歯がゆい思いをもたらすなんて知らなかった。

ようやくたどり着いた部屋の前で、リュクレスは振り向いてもう一度「おやすみなさい」とたどたどしく告げる。

ヴィルヘルムはできる限り穏やかに「良い夢を」と返した。

扉の向こうにリュクレスの姿が消えてからも、ヴィルヘルムは動きだせずにその場に立ち尽くした。

荒っぽい仕草で前髪をかき上げ、天を仰ぎ、目を閉じる。

この苛立ちは。

らしくもなくうまく立ち回れない自分に、そして。

男の葛藤に気が付いて何も言わずに帰っていた娘にも。

「君は…人の気持ちに聡すぎる」

ヴィルヘルムはやりきれない思いで、ため息を漏らした。




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