12
ノルドグレーン伯爵は先ほどから渋面を崩さない。
向けられる厳しい眼差しにヴィルヘルムは内心で苦笑した。
厳格な老紳士にとって、自分のような男が囁く甘い言葉は、如何にも軽薄に映るのだろう。
それをわかっていながら、業とそれをリュクレスに向けてみせるあたり、中々に性格が悪い自覚がある。それでも誠実な伯爵のリュクレスヘの紛う事無き情愛を感じてしまえば、ヴィルヘルムには暢気に微笑ましいと見守っている余裕はないのだ。
形は違えど、愛情には違いない。
こちらばかり睨みつけている彼は、だから、向けられる視線に気づかない。
さて伝えるべきか、否か。
迷うというほどの明らかな意思もなく、ただ、少しわかり易いように視線を流す。それで、ようやく気がついたのか。視界の端に見える娘に、目を転じた。
ノルドグレーン伯爵の目が見つめるのはリュクレス自身なのか、それとも彼女の母アリシアの面影か。その疑問は、多分リュクレスの中にもあるだろう。
それでも、彼女は視線が合えば、綻ぶようにふわりと笑った。
思わず、というように伯爵の手が伸び、たどたどしく少女の頭を撫でる。慣れない手つきは乱暴で、彼が手をひっこめた時には、柔らかなリュクレスの黒髪は乱れてぼさぼさになっていた。
そんなつもりはなかったのだ、断じて。
そんな言葉が音にならずとも聞こえてきそうなほど、老伯爵の眼が狼狽に揺れている。
ヴィルヘルムは、口の端を僅かに震わせ、笑みを堪えた。
…なんとも不器用な人だ。
だからこそ、この母娘を守ることができなかったのかもしれない。
「……すまない」
居た堪れない顔をした彼の謝罪に、リュクレスは目を瞬かせてから、また笑った。
「大丈夫です。気にしないでください」
柔らかな笑顔を懐かしげに見つめ、伯爵はぽつりと零した。
「…本当に、変わらないな。君は」
「え?」
「…一度だけ、修道院に訪ねて行ったことがある」
覚えていないのなら、それでもいい。小さな呟きはヴィルヘルムの耳にも届く。
「君にうちの子にならないかと…」
「あ」
「思い出したかね」
「は、はい」
頷くリュクレスの頭に、ヴィルヘルムは手を伸ばした。乱れたままの髪を優しく梳いて整える。気を引くようなその行為に、藍緑の双眸が己を映す。
それに満足して、話を戻した。
「忘れていたのですか?物覚えの良い君にしては珍しいですね」
そう尋ねると、娘はへにょりと眉尻を落とした。
「…そのこと自体は覚えてはいたんですけど…。ええと、あの…領主様と繋がらなくて…」
言葉を濁すその様子に、ヴィルヘルムは「ああ」と、得心が言ったように頷いて、優しく微笑む。
「怖そうだったからわからなかったと、素直に言っても大丈夫だと思いますよ」
「ヴィ、ヴィルヘルム様!違いますっ」
揶揄するヴィルヘルムの悪い口を封じようと、リュクレスが慌てて小さな手を伸ばしてくる。その細い手首を捕まえて、質の悪い笑みを浮かべてしまうのも、彼女が可愛らしいせいだとそんな風に責任転嫁して。
見せつけるような行動に、不機嫌な伯爵が睨めつけてくるのさえ、可笑しく思う。
無言の攻防に気づいていないリュクレスだけが、懸命に自分なりの言葉を探している。
「え、えと、初めはちょっと、怖かったけど、もう怖くないですよ?本当ですよ?」
怖くないと嘘を言うのは簡単なのに、そう出来ないあたり彼女らしい。
(リュクレス…君は本当に素直ですねぇ…)
笑うしかないヴィルヘルムとは反対に、やはり怖がらせたかと落ち込んだ伯爵が、そのあとに続いた言葉に、浮上してくるのが分かる。
ささくれた心も、癒されていることだろう。
もう一度皺の刻まれた手を伸ばしたノルドグレーン伯爵は、今度こそ丁寧に、そろそろとリュクレスの頭を撫でた。
謹厳実直な性格である彼は、その態度が子供や女性には少し引かれてしまう原因になっていることを自覚しているらしい。
頑張ってリュクレスに優しく接しようとしている姿は、ヴィルヘルムなどからすると、とても好ましく映る。
真面目な老紳士の不器用な態度が口許を緩ませる。
だが、それに気づいたのは誰であろう、正面にいたノルドグレーン伯その人であった。
その何とも言えない表情に、我慢できなくなって、ヴィルヘルムは声を上げて笑った。
「オルヴィルタム卿…っ」
「申し訳ない。つい」
非難を帯びた声に謝罪をするものの、その整った唇にはまだ笑みが乗せられたままだ。
「ヴィルヘルム様?」
「いえ。見ていたら、まるで孫に甘い祖父のようで。厳格で通っている彼のそんな姿を見ることになるとは思ってもみなかったものですから」
よくわかっていないリュクレスの顔を見ていたら微笑ましくて、やはり笑うしかない。
くつくつと笑いを収めることのないヴィルヘルムに、ノルドグレーン伯爵は顰めっ面になりながら、反撃をした。
「……貴公こそ。冷静沈着、冷酷無比な冬狼将軍は何処に行きなされたか」
「春の日差しのもと、花を愛で冬狼は微睡むのです。花を得た私が変わったところで、何ら可笑しな話ではないでしょう?」
「将軍も、恋をすればただの男か」
「そういうことです」
牙を抜かれた狼と笑いたくば笑えばいい。愛しい花の前では鋭い牙も爪も必要のないものだ。
甘く蕩けるヴィルヘルムの眼差しに、ノルドグレーン伯は目を眇めた。
その奥に隠された鋭利な牙を、老練なる紳士が見逃すはずもない。
「煮ても焼いても喰えないとは思っていたが、…空恐ろしいな。貴公は」
冬狼は、微睡むだけ。
その牙も、その爪も失ってなどいないのだと。
ヴィルヘルムはただ静かに微笑んだだけだった。




