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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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18


暗い夜空には、細く釣り針のような月が懸る。

星明りの方が明るいような夜だった。


ぼんやりとした光は庭園と屋敷を照らし出すが、静かに寝静まった屋敷の周りを囲んだ漆黒の森には一筋の光すら届かないただの暗がりが広がっていた。

微かな息遣いがしんとした空気を揺らした。

人の気配は静かに消され、しかし殺伐とした雰囲気に森の獣たちもその緊張に身を潜め、不自然な静けさが辺りを包む。

静かな暗闇の中に、不穏な気配がゆらりと揺れた。

複数の男たちが息を殺し、時を待っている。

彼らの片手にある獲物が、鈍く光る。

雲に僅かな月明かりが隠される。声もなく、彼らは合図で動き出す。



夜陰に混じり、襲撃ははじまる。




ガラスの割れる音が屋敷内に響いた。

緊迫した誰かの誰何する大きな声に、リュクレスは目を覚ました。

部屋の外の騒然とした雰囲気に、飛び起きた彼女の心臓が大きく脈を打つ。

見回す部屋の中は眠る前と変わらない。扉を隔てた向こうに何かが起きていることはわかるが、見えないことがいっそう不安を煽った。

震えだしそうな自分の体を叱咤してベッドから降りると、頼りない白い寝衣の上に、枕元に用意していたショールを羽織る。

とうとう、ヴィルヘルムが待っていた時が訪れたのだ。


こくりと、息を飲む。


…足が、竦む。


外から、逃げろと声が聞こえた。護衛に立つ騎士の一人の声だった。

コレクトという名の笑顔がとても人懐っこい青年の顔が浮かぶ。


ソルは…彼らは無事だろうか?

扉を開いて、無事な姿を確認したい。反面、逃げろという言葉に素直に従ってしまいたくなる。


窓の外は暗く、日の出は遠い。

逃げたいと本能が叫ぶのを、戒めるように両手を組み、祈る様に額に当てる。

…逃げるわけにはいかない。

このために、自分は、此処で大切にしてもらったんだから。

そんな風に考えそうになってはっとする。


…違う。そうじゃない。

大きく首を横に振って、自分の言葉を否定する。

違う、大切にしてくれたのは。彼らの意志で、彼らの思いだ。

そして、その思いを返したいと、これは自分で選んだことだ。

ソルの、王の、…ヴィルヘルムの役に立ちたい。


弱い自分は震えを止めることが出来ない。


それでも。

その思いだけは本物だ。


響く怒声、殺意のこもる喧噪。剣戟が響くたびに肩がすくむ。

何処か、あの戦禍の中に取り残されたような、残酷な冷たさに。

まるで冬の寒さの中にいるように、手が冷たくかじかんだ。

今までの穏やかな時間が作り物の様に壊れていく様に、唇を噛みしめる。

リュクレスは一拍おいて拳を解き、顔をあげた。きごちない身体を動かし、靴は履かずに周囲を見回す。

逃げるわけにはいかないが、簡単に捕まるわけにもいかない。

囮だとばれてはいけない。


「襲撃があれば、時間を稼ぎなさい。それが、君を助けることにもなる」


耳に甦る声に、溢れそうになる弱音を、必死で飲み下す。

ヴィルヘルムの灰色の瞳を思い出し、リュクレスは衣装室に向かった。


そこに隠し部屋がある。丹念に調べればすぐにわかる程度の代物だが、時間稼ぎなら丁度良いと、事前に教えてもらっていたものだ。ドレスを掻き分け、壁板の切れ目に合わせた扉を開ける。人ひとりが逃げ込むには十分な空間がそこにある。

リュクレスはそこに飛び込もうと足を踏み出した。

隠し部屋の中は真っ暗だが、それが躊躇いを生むことはない。

入ることを妨げたのは、背中に掛けられた柔らかい声と、捕まれた手。

同時に後ろに腕を引かれ、リュクレスはたたらを踏んだ。


「どちらに行かれるの?」


耳に馴染むその声は、いつものように朗らかで楽しそうだった。


いつもとは全く違うこの殺伐とした戦慄の中で、それはぞっとするほど異質な空気を纏ってリュクレスに届く。

振り返ると、笑みを浮かべたマリアネラが、掴んだ手を引き寄せた。また、一歩隠し部屋から離される。その意図に、愕然とする。

「マリアネラさん…?」

混乱する思考はリュクレスの想像を否定する。

だって、彼女はやさしかった。

「…あ…え…」

狼狽えて意味をなさない言葉を漏らす少女に、女は婀娜めいて嗤った。


「残念ね、貴女可愛いから…。とても気に入ってしまったの」


掴んだ手とは逆の手で、髪を撫で、それから青ざめた顔に触れ、頬を包む。

その仕草はとても優しくて、リュクレスは固まったまま動くことが出来ない。

細く形の良い指が、頬を撫で、そっとその首筋をそっと滑る。

ぞっと、背中を這う悪寒に、リュクレスは小さく悲鳴を上げ、その手を払った。

だが、その瞬間、首筋を掠めた鋭い痛みに顔を顰める。


「な、何…?」


眩む視界は眩暈のように頼りなく揺れ、強制的に落とされる瞼。

暗転する、世界。

崩れ落ちる身体は途中、誰かの腕に受け止められて。


…耳元に小さく落ちる謝罪の声を、どこかで聴いた気がした。





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