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「あの…、助けていただいて、ありがとうございます。ソル様も本当にありがとう」

残念な少女の後ろ姿を見送っていたルーウェリンナはソルと自分に向かって、深々と頭を下げるリュクレスに視線を転じた。

向かい合っていたふたりの少女はどちらも可憐で可愛らしい容姿をしていたけれど、その目が浮かべるものは、正反対に近かった。

ルーウェリンナは蒼玉の瞳を細めて表情を和らげる。

「ふふ、頭を上げて?お礼ならいらないわ。私はただ、あなたに会いたかっただけですもの」

「私に、ですか?」

言われたとおり頭を上げたリュクレスは、きょとんと目を瞬かせ、ルーウェリンナを見返した。その無垢な眼差しに、やんわりとルーウェリンナは口元を緩めた。

(本当に、可愛らしい)

「将軍が掌中の珠のように大切にしているあなたとお話がしてみたかったの。彼が守ろうとしているあなたを私が守れて、とても嬉しいですわ」

迷うように彷徨っていた感情が、その言葉に、覚悟を決めたように真っ直ぐにルーウェリンナに向けられた。

「…あ、の…、ルーウェリンナ様は、以前…ヴィルヘルム様の恋人だったのだと聞きました。あの…」

とても言いづらそうに言葉を選んでいるリュクレスに、今度はルーウェリンナがきょとんとする。

「あら、どこまでお聞きになったの?」

「その…ええ、と…」

困って言い淀むその姿に、ルーウェリンナは苦笑した。


少女の眼は余りにも正直だ。


「全て、なのね?彼は本当にあなたの前では正直でありたいようだわ。男らしいかもしれないけれど…恋人にそんな話はかえって不安を煽るだけでしょうに。馬鹿ね。…何考えているのかしら」

おっとりとした雰囲気に一瞬めらりと炎のようなものが上がった気がする。それは品の良い笑みに綺麗に隠されて、あっという間にわからなくなった。ちなみに後ろに控えていたソルの背後にも不穏な気配が立ち昇ったのだが、リュクレスは気がつかない。

「恋人だったかと言われれば、対外的にはそうだけれど、実質的には微妙なところなのよ?お互いそのつもりがあまりなかったもの。彼が私の手を取った理由だって、愛情ではないわ。あの頃、子供ができなくなった私が絶望していたからだもの」

「え…」

さらりと言われた言葉に、リュクレスは絶句した。

それは、かなり重大で辛い秘密なはずなのに、彼女は人差し指を唇の前に立てると、ここだけの話ねと、片目を瞑ってみせる。

「本当であれば、話すべきではないと思うのですけれど。彼は変に正直に話したようだから…少しだけ追加して話しましょう。アルが王となり、その片腕として彼がこの国を守るのを、私はすぐ傍でずっと見ていたの。年の変わらない彼らのその姿が誇らしくて、私もオルフェルノのために尽くしたいと思ったわ。女だからこそ、他国と結んでオルフェルノの地盤を安定させることができると、そう信じていたの。けれど、私は病魔に襲われ、病は私を子の宿せない身体にしてしまった。…酷く辛かったわ。王族として役に立てず、女としての自信も何もかも失った。視野が狭かったのね。そんな私に、子供ができなかろうと貴女が素晴らしい女性であることには変わりがないと、将軍は言ってくれた。…あの時はまだ、一騎士だったけれど。縋るように手を伸ばした私を彼は、支えてくれた。けれど、私の矜持がそのまま彼に頼りっぱなしなのを許さなかったの。だって、彼が手を振り払わなかったのは、あの時、彼には大切な相手がおらず、私が友人だったからですもの。そして、それは私も同じだった。だから、とても後悔したわ。それ以上後悔したくないから手を離したの。ね、…どこにも色っぽい話はないでしょう?

私はね、彼が本気で恋をしてくれて嬉しかった。私の選択は間違っていなかったでしょう?あの時、私への憐憫で結婚していたならば、あなたに出逢っても彼は自分の想いを告げられなかったし、あなたもきっと彼の手を取らなかった。過去の私に喝采を浴びせたいわ。彼が本当に愛する人の手を取ることができて、本当に嬉しい。心配しなくても、あなたを嫌ったりなんてしないわ。逆に若い頃の私の愚かさを謝罪したいくらいなのだから」

あのヴィルヘルムが恋に落ちたと聞いて、ルーウェリンナは相手にとても興味があった。

どんな女性だろうかと好奇心に誘われて、実際に会ってみればなんて可憐で強い花だろう。

公女に真っ直ぐに立ち向かうその姿にうっとりと見入っていたなど娘は知らない。

光に透ける藍緑の瞳は息を呑むほどに美しく輝いて、滲み出るその清らかな誠心は幼げな容貌と相まってとても魅力的に映る。慎み深い態度とその仕草は、抱きしめたくなるほどに可愛らしい。

「愛する人として、触れる女性はきっとあなたが初めてよ?」

にっこりと悪戯っ子のように笑えば、リュクレスは少しだけ目を潤ませて、頬を桃色に染めた。

ルーウェリンナを見つめて、ふわりと微笑む。


冬なのに温かな風が通り過ぎたような気がした。


蕾が綻ぶような、控えめなのに目の離せないその笑顔。つられてこちらも幸せになるような、その温もり。春風のような心地よさに、心の芯の部分が掴まれる。

将軍がこの娘を欲しがった理由を理解する。

(ああ、この子は春なのだわ)

冬を纏う男が望む春陽。麗らかな春の光。

優しく彼に雪解けの季節を告げる花の精。


「ルーウェリンナ様ありがとうございます。こんなふうに心を砕いてもらえる方に嫉妬していたなんて、…本当に申し訳ないです」

「あら。私に、嫉妬?」

「…ごめんなさい。ヴィルヘルム様にとても大切にされているから…」

「大切に?」

「ヴィルヘルム様がとても愛おしそうに…見つめていたから、胸が痛くなりました」

しゅんと肩を落とす少女のなんて素直なことだろう。謝罪も感謝も、彼女は決しておろそかにしない。ちゃんと自分の言葉で、想いを伝える。

それが、言いにくいことであっても。


私を愛おしそうに…?


身に覚えのない言葉に、ルーウェリンナは首を傾げた。

記憶を手繰り寄せて思いついたのは、庭で話していた時のこと。

「もしかして、先日の庭園でのお話かしら?」

「…はい」

所在なげな両手が纏まって、きゅっと拳を作っているのが、ルーウェリンナの庇護欲をそそる。

「…あらあら、まあ、可愛らしい嫉妬、ね」

あまりの微笑ましさにそう返せば、困惑したようにリュクレスは眉尻を下げた。

「醜い、嫉妬ですよ?」

「修道院で育てばそれほどに、他者を貶めないような優しい子が育つのかしら?いえ、違うわね。きっと、あなたがとても優しいのだわ」

「そう、ですか…?」

その嫉妬に、どこにも誰かを虐げるような思いがない。

きっと、その言葉は男を喜ばせただけだろう。

「もっと、嫉妬してあげればいい。あなたの嫉妬は心地よいですもの」

とんでもないと、罪悪感にふるふると震える少女はまるで小さな動物のように愛らしい。

どこか加虐心さえ湧きそうになるけれど、優しくすればあの笑顔が見られると思うと、意地悪もそこそこにしておきたくなる。

あの男が大切にしたくなる気持ちが分かってしまった。

「ふふ、きっとこの場に彼がいたのなら、嫉妬するのは彼のほうね」

「え?」

「彼は言わなかった?彼と私はよく似ているの。思考も好みも、ね?だから、きっと、嫉妬するのは彼の方。ふふ。おかしい」

本当に可笑しく思って、ルーウェリンナは口元を覆った。くすくすと、耐え切れなくなった笑いをこぼす。

「ひとつ、誤解を解きましょう。あの時、彼はあなたの話をしていたの」

「え…?」

「ふふ、あなたを想って、彼は私を見ていたの。あの眼差しが向けられるのは後にも先にも。…きっと、あなただけ」

甘く優しく、勘違いを知らされて、リュクレスは目を白黒させた。


顔は赤いのか、青いのか。

器用にも百面相の状態だ。


「ふふ、可愛らしい。もし、彼と喧嘩して家出をするなら私の元にいらっしゃいね?」

傍にいると心地よい。彼のものでなければ、きっと彼女を望んだだろう。

含みのある笑顔はリュクレスを通り過ぎ、その後ろへと向けられる。

その視線を追うように振り返ろうとした娘は、背中から優しい腕に囚われて振り返ることができなかった。


「…駄目ですよ。この子は私のものですから。貴女であっても、あげません」


頭上から聴こえてきた声に、今度こそ間違いなく顔を赤くする。


「あら、それならば簡単なことですわ。彼女を大切にして、喧嘩しなければいいのだもの。きっと、その子を愛おしいと思う者は私だけじゃないでしょう?ね、ソル?ふふ。私に取られたくなければ、大事にしなさい」

「言われなくても、大切にしますよ。私の宝ですから」

ルーウェリンナはその言葉が少しだけ引っ掛かったのか、眉を顰めた。

「…ヴィル、…いえ、ヴィルヘルム、彼女は人間よ。人格も感情もある一個人。それを忘れないであげてね?」

憂いを断つようにそう忠告すれば、それに応えたのは少女の方だった。

「ルーウェリンナ様、ヴィルヘルム様はとても大切にしてくれます。私の心をないがしろにしたことなど、一度もありません。だから、大丈夫、ですよ?」

男の腕の中で、おろおろと二人を見上げていたリュクレスが、ルーウェリンナに一生懸命伝わるようにとそう言った。心をヴィルヘルムに預けて、その瞳には純粋な信頼を浮かべるから。

「あらあら、ご馳走様」

ころころと、ルーウェリンナは笑った。

10代の頃に戻ったかのような、作ったところのない笑い方に、ヴィルヘルムは少しだけ驚いて、それからリュクレスを抱き寄せる。

ヴィルヘルムをまっすぐに受け入れてくれる娘に、ありがとうと、囁きを耳に落とした。

ルーウェリンナが昔のように笑うことができたのは、ヴィルヘルムが自分の幸せを見つめたからだ。けれど、その幸せを与え、彼女を安心させたのはリュクレスだから。


感謝以外の言葉が、見つからない。









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