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喜びに色づく娘の頬に親指を滑らせて、男はその涙の跡を拭う。
そこにはもう、不安そうな恋人はおらず、無邪気な笑みを見せていた。
こうして彼女を笑わせることができるならば、それだけで男冥利に尽きるというものだ。
一途に人を想うのに、想われることにどこか自信のない娘は、ようやくその戸惑いを昇華したように見える。
それが嬉しいからこそ、ヴィルヘルムは喜ぶばかりでいられない。
「…君を、王妃と王女に返したくないな」
そんな、理由で。
目を丸くして驚くリュクレスには、予想すらしていなかった言葉だったのだろう。
大きな目がまじまじとヴィルヘルムを見つめている。
可愛らしい嫉妬に逃げ出したリュクレスなどより、よっぽどに情けない自分に、苦笑う。
「大人気ないな。けれど、それくらい私は君を独占していたいんだ。覚えておいてくれないか?」
手を伸ばし、さらさらと髪を撫でる。つい、戯れに解いてしまった黒髪は二の腕にかかる程までの長さになっていた。
飽きもせずに、その髪を弄る。まるで猫のように、少女が目を細めて首をすくめる姿が愛おしい。…その想いには、際限がない。
アルムクヴァイドが危ぶむほどに、この執着は妄執じみている。
それが、暗く沈まないのはきっと、陽だまりのようなその笑顔のおかげなのだろう。
控えめに、そっとリュクレスの手が、男の服に触れた。小さな手は、ただ、添えられるだけ。明るい水面に朝日が降り注ぐように、ふわりと、瞳の中に光が解けた。
「私は、ヴィルヘルム様のもの…ですよ?だから…えっと…」
途中から、言おうとすることが恥ずかしくなってしまったのか。頬を赤く染め、少しだけ潤んだままの瞳で、気恥ずかしげにヴィルヘルムを見上げる恋人に、
「だから?その先は…?」
催促をするように男は囁いた。
どこか期待を含んだその響きが、リュクレスの背中を押す。
「ずっと、……独り占めしていてください」
甘やかに、恋する娘はそう言って、どこか子供のような仕草で、ぽてりと。
男の懐に顔を埋めて、抱きついた。
リュクレスから求められた抱擁に、狂おしくも相反する柔らかな愛しさに満たされる。
やんわり腕の中の娘を抱きしめて、その旋毛に軽く顎を乗せたヴィルヘルムが吐露したのは「やれやれ、さっきから煽られてばかりだ」という、なんとも苦しい本音だった。
心地よい体温が本当に大切で。
愛おしい恋人が、男にとってはやはり失えない、かけがえの無い宝物なのだ。
本当ならば、手の届くところにおいて、彼女を離したくない。
籠の鳥にしたいと思う自分は確かにいる。
彼女を常に傍に置いて、自分の手で守りたい。
自分の責任も責務も全て放り出して、彼女だけを優先したいと思うこともある。
だが、それでは、彼女が彼女でなくなってしまう。そして、自分も。
それは、どちらも決して幸せにはなれないだろう。
冬狼の名を抱く騎士として国を守り、アルムクヴァイドの求める国を作る力になること。
己が決めたことを貫き通すことは、ヴィルヘルムの生き方そのものだ。
そんな自分をリュクレスが愛してくれたのだと知っている。
そして優しい野の花は、自由な自然の中だからこそ美しく咲くのだろう。
変わらないでほしい。そして、春の陽射しのように微笑んでいて欲しい。
だから、ヴィルヘルムは彼女を守ることだけを優先できない。
否、そうしないと自分で決めた。
王と国を守ること、リュクレスを守ること、どちらも同じようにしてみせる。
そのために、彼女を完全に危険から遠ざけることができなくても。
(必ず、守ってみせるから。だから、君に危険を伴わせる俺をどうか許して)
懺悔は言葉にされることなく、男は腕の中の愛しい娘の体温を確かめていた。




