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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
134/242

33



睨みつける狼の瞳の中には、敵愾心や憎しみの晦冥かいめいさはなく、純粋に娘を守ろうとする毅然とした強さだけが鮮烈に光を放っていた。

余りにも眩しい皓々とした眼差しに、男に絡みつく泥のような暗闇が一層深く濃くなり、その身体を侵食するように、足元が沈み込む。

ぽっかりと穴を開けた暗澹たる底なし沼に飲み込まれてゆく、感覚。

流されるように遡る記憶は、男の歩んだ悪意の冥途を映し出す。


吐き気を催すような凄惨な復讐劇。


血の匂いと焦げ臭さに不快になりながら、彼が見つめる先には、血を分けた子供たちが、生きながら引き裂かれていくのをにやにやと見つめる父親がいた。

初めて入る宮殿は無残なもので、豪華絢爛であっただろう装飾はその名残を残すこともなく、見事に破壊されていた。絵画も壁掛けの飾りも炎に巻かれて黒ずんだ灰となって崩れ落ち、燃え切らない金銀の装飾の多くは略奪されて残ってはいない。

悲鳴、絶叫、憎悪に満ちた罵声。

滅びというものが形を伴ってそこにあった。

惨劇の場に観客のように立つ親子のことを、誰も気にする者はいない。

奴隷たちにとって、彼らは暴動を扇動し、実際の行動に移すため準備をしてくれた協力者であった。襲われることはないが、目の前に憎しみの対象がいるのだ、扱いとしては無関心が妥当だろう。

玉座に座っていたはずの父は冷笑を浮かべ、自国滅びていくさまを傍観していた。

そこに誠実に国を治めていた王はいない。

居るのは、血腥いその凄惨な現実を狂喜しながら特等席で観覧する、怪物だけだ。

父は母を殺された時点で、狂ってしまった。

彼は自分の血族を、国民を、国を滅ぼし、全てに等しく絶望を与えるつもりだ。

奴隷たちは気づいていない。己たちも滅びるものの中に含まれていることを。

今の奴隷たちに、先を見越し、暴動を収束させる理性はない。そして、本能のまま破壊しつくした国を自らの力で立て直すことも、新たな国を興すことも彼らにはできないだろう。押し付けの命令に従うしかなかった彼らには、衝動的な暴動は起こせても、国を治める知識はない。憎悪が燃え尽きたとき、残るのは灰と残骸、酸鼻を極めた廃墟のみ。彼らもまた、滅びる宿命なのだ。

繰り広げられた残虐な行為に、男は感情をことりとも動かされることはなかった。

生きたまま燃えてゆく母親を助けることができず、己も喉を焼かれ、父とともに復讐を選んだ時点で、男もまた、狂気に侵されていたのだろう。

だが、それでも狂気に上塗りされず、脳裏に焼き付いた柔らかな記憶。

…美しい藍緑の瞳が悲しそうに、困った人ねと囁くのがどこからか聞こえていた。

「お前が悪い。お前が俺の前からいなくなるからだ」

囁きにそう返して、歪な感情が皮肉げに口角を歪めた。


さらに逆行していく記憶。


オルフェルノでの甘やかな恋、短い逢瀬。

王の庶子としての地位など望まず、男は商人として国外を回っていた。概ね順風満帆と言えたが、血気盛んな駆け出しの若造だ。時には取引に失敗して、相手を怒らせる事もあった。あの時もそうだった。オルフェルノに来て初めての交渉で生意気だと袋叩きにあい道端に放り出されたのだ。それを拾ってくれたのが、アリシアだった。彼女は、見も知らぬ男を医者に連れてゆき介抱した。

そのお人好しさに助けられたとは言え、こんなことではあっさり騙されるのではないかと心配になる。呆れて物申した彼に向かって、彼女は「見る目はあるの」と、のんびり笑った。

それが、はじまり。

しばらくは医者の世話になり、彼女との交流のもと、穏やかな時間が流れた。

アリシアは、年上の穏やかさとお茶目な可愛らしさで、出会いから男を振り回した。恋に落ちるのは、余りにも早く、必然のようだった。

柔らかく愛しく、予想外に心を揺り動かされる、明るく安穏とした日々と深まっていく想い。

だが、互いにそれを口にすることはなかった。

そして、平穏な日常は唐突に、彼女の主人ルウェリントン子爵によって壊された。

乱れた着衣、泣きながら飛び込んで来た彼女を見れば、容易く起きたことは想像がついた。

愚劣な男に乱暴され、泣き崩れそうな彼女を、助けを求める彼女を男は愛したのだ。

触れられた感触を上書きするように、忘れさせるように優しくふれあい、朝を迎えたアリシアは霞むように淡く愛おしい笑顔を向けた。

ありがとうと、その言葉に男はなにか間違えたことを悟る。

愛する女性の弱ったところに付け込んだ自分。

彼女は、汚れた自分を愛してくれた男に感謝を告げた。

ふたりはすれ違ってしまったのだ。

噛み合わない何かを感じながらも、それをどうにもできずに日にちだけが過ぎ。

ようやく意を決して、結婚を申し込もうとした男を待っていたのは、もぬけの殻になった静かな部屋だった。伝えるべき言葉を伝えられないまま、男は愛する女性を見失った。

姿を消したアリシアを探して見つけることの出来なかった男は、失意のうちに彼女を諦めた。

諦めたと、…思っていた。


あの日、薄暗い教会の中で、同じ瞳を持つ娘を見つけるまでは。

己と同じ夜闇の髪に、アリシアと同じ瞳の色。

男は、愛する女を籠に入れなかった自分が悪いのだと思った。

飛んでいった鳥を探すことは難しい。

ならば初めから、閉じ込めて、鳥かごに鍵をかければいい。

今度こそ、逃がさない。幸せにしてみせよう。

…自分の娘であったなら尚更に。

取り戻せるような気がしていたのだ。狂気の中から、あの温もりを。


…だが。

邂逅からゆっくりと現実に舞い戻る。


「返してもらいますよ」

灰色の酷薄とした瞳に鉄を溶かしたような純粋な熱を隠さず、射抜くように見据える眼差し。

その腕にその娘を抱きしめる。

己を守る腕にそっと手を添えて、男の胸に体を寄せる娘は安堵に声もなく、頬を伝う涙を落とすままに、求めているのは自分ではない。そこにある温もりだ。

籠の中に閉じ込めておくことは簡単だった。

だが、娘は笑ってはくれない。

本当に欲しいのであれば、死に物狂いで探すべきだったのだろうか。あの柔らかく、仕方のない人ねと笑うあの人を。あの声を聞きたいと。

この男のように。

あの夜、ごめんなさいとそう言ったアリシアの言葉の意味をちゃんと考えたならば、彼女を失わずにすんだのだろうか。慰めに抱いたのではないと、何が起きたとしても変わらず愛していたのだと伝えたのならば、彼女は男の元から離れることはなかったのか。

よく似た面影の娘のその声は、しかし、記憶のアリシアの声ではない。

ああ、失ってしまったのだと、ようやく気がつく。

代わりなど、誰にもなれないのだと娘の言葉は、覆ることのない事実。

例えアリシアと自分の子供であろうとも。この子にアリシアを失った隙間を埋めさせようなどとしたことが間違いだったのだ。

これほどまでに、狂気に塗れ、闇に囚われた己に。

柔らかな陽の光が似合う娘を、幸せになど出来るはずがなかった。

後悔と、諦めと。

ただ一つ、この子のことだけは。

―――まだやり直しがきく。

やるせない愛おしさを静かに仕舞い込み、男は娘に笑いかけた。


「その子は返そう。…どうか幸せに」

初めて見せた男の穏やかな笑みが誰かに重なる。

…ああ、マリアネラだ。

どこか憑き物が落ちたような穏やかな笑みに慈しむ光を見つけ、思わずリュクレスは手を伸ばしかけた。

ヴィルヘルムの手が、それを止める。

首を巡らせてヴィルヘルムを見上げ、それから名も知らぬ男を見つめる。

初めてルウェリントン子爵が接触してきてから、ずっとあった違和感。

母は優しいから、願ってできた子供でなかったとしても、心から愛してくれたと思う。でも、リュクレスの髪をいとおしそうに撫でる母の記憶に、リュクレスは子供ながらに思っていたのだ。

(きっと、お父さんは黒い髪なんだ)

そして、母はその人をとても愛していた。

懐かしさ、それは父だと言われたルウェリントンには感じたことのない感情。

「貴女の髪の色が私はとても愛おしいの」

母の言葉の意味、彼の瞳が凪いでいる意味がリュクレスの前に答えをそっと差し出す。

「貴方が、私のお父さん、ですか…?」

男は、頷きはしなかった。ただゆるりと懐かしそうに切ない表情を浮かべた。

「想いを告げたことはなかった」

それでも。

落ちてきそうな空の下で…あの時確かに愛し合っていたのだ。

凍てついた心はその思い出すら凍らせてしまっていたが。

「君のお母さんは、とても大人だったから未熟な私の心ごと愛してくれた。私はそれに甘えて…」

何か言いかけて首を横に振る。そして今までのような茫洋とした瞳ではなく、光を浮かべたその目がリュクレスを見つめて慈しむように解けた。

「私は彼女を愛していた。そして、彼女の残してくれた君を、愛しているよ。私の…愛おしい娘」

ようやく言えた言葉、ようやくそれに気がついた。

それが余りにも遅かったことは、彼女の後ろで護り手のように佇む将軍をみれば明らかだ。

国を滅ぼし、どれほどの人間の人生を歪めたのか、男は目をそらすことはできない。

その責任は取らなければならないだろう。

でなければ、この娘すら安全ではいられない。

取り返しのつかない己の兇行。そして、父はまだ狂気に生きている。

真っ直ぐに、男は将軍を見据えた。

意図することは、慧眼に優れた彼にはそれだけで通じるだろう。

予想通り、娘には知らせないよう、彼は頷くことさえせず、それを承知した。






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