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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
133/242

32



静かな部屋に、衣擦れの音だけが聞こえていた。袖を通すのはジュストコールではなく、正装の軍服でもなく、騎士としてヴィルヘルムが戦場に出るときの軍装だった。

詰襟を留め、無造作に寝台の上に放ってあった剣を取り帯剣する。

「いくのか?」

無言で淡々と、身支度をするヴィルヘルムに向かい、アルムクヴァイドは尋ねた。

扉に背を預け、腕組みをしてヴィルヘルムの背中を見つめる、そこに居るのは王ではなく、ヴィルヘルムの親友としての彼だ。

殊更ゆっくりとした動作で、ヴィルヘルムは振り返った。

「当然だ。俺のものを取り返しに行って、何が悪い」

ふつふつと煮え立つような焦燥を綺麗に隠して、彼は鋭利な静けさに身を包む。

冷静というよりも、酷薄なほどに冷たい瞳には男の強い決意が漲っていた。

その光を誤魔化す眼鏡はヘッドボードに置かれたままだ。

「リュクレスを責めるなよ」

「そんなことしない。ただ、取り戻したいだけだ」

こんなに苦しいのは、もう御免だ。

千々に乱れる心は、重たく硬い石を呑み込んだように痛くて重い。

早く、あの子を悲しみから早く救い出したい。

ようやく泣けるようになった娘が、悲しみの海に沈んでゆくのを思えば、胸が引き裂かれそうだ。

「アル、すまん。私情だが、全てを使わせてくれ」

将軍としての地位で使えるものは、本来であれば王のためのもの。怪物狩りを建前に、実際にヴィルヘルムが行おうとしているのはリュクレスを守ることだけだ。

それは明らかな職権の乱用。

「俺だって、あの子が救えないような国王でありたくはない。ヴィルヘルム、後のことは気にするな。お前の思うとおりに、あるものは全て使え。許す」

アルムクヴァイドは親友として、王の言葉で許可を出す。



上空の鷹の目が、逐次状況を伝えていた。

リュクレスに付けたルードが彼女の身を守る。

伝令によって検問が上手く機能し、彼らの乗る馬車の進みは鈍いものとなっていた。一日掛りで辿り着いた先は、国王の直轄地でありながら、境界にほど近い辺鄙で小さな村。

どこぞの貴族が避暑の目的で建てたのであろう屋敷がぽつりとそこにあった。

ソルへの連絡をチャリオットに託し、全ての準備を終えると、ヴィルヘルムは単騎で疾走し、リュクレスのもとへ向かった。範囲さえ絞られれば、怪物の潜伏する場所は限られてくる。馬車に迂回を繰り返させながら、ヴィルヘルムは行先を予測したのだ。半日以上遅れて出たヴィルヘルムだったが、早朝には馬車に追いつき、先回りして屋敷にたどり着いていた。

裏手から侵入を果たしたヴィルヘルムは顔を顰めて口元を覆う。

屋敷の中に漂う、甘い異臭。

(夢幻香か…)

非合法な娼館などで、よく焚かれているものだ。女性たちから逆らう思考を奪い、逃げ出させないためのもの。闇商人の屋敷には相応の香りなのかもしれないが、倦んだようなその空気は、リュクレスには似合わない。

風に乗るささやか花の匂いこそ、あの子には相応しい。

それほど人の多くない屋敷だ、人目を避けてヴィルヘルムはひと部屋ずつ中を確認していった。

閑散とした居室が並ぶなか、屋敷の2階の奥に、その部屋はあった。

「…これは」

これは所有欲か。はたまた狂気の沙汰か。

その部屋にあるのは、豪奢な鳥籠だった。

大切な娘を閉じ込めたいとその思いはヴィルヘルムの中にも燻る。


だが、これはない。

これでは、あの子は笑えない。


チャリオットの勘は外れていない。

黒髪の男を見たヴィルヘルムも、彼が怪物であると確信していた。

遠目にもわかる男の纏う荒廃の気配。

チェルニでリュクレスが不安そうに語った男。

リュクレスは本能的に男の狂気を感じ取ってしまったのだろう。

物音が近づく。

ヴィルヘルムは室内に入り、物陰に隠れた。

悲しみに彩られた愛おしい娘の声に、胸が締め付けられる。

そして。

「私がいなくなれば、貴方はこの国から興味をなくしますか?…そんなに欲しいなら、この眼だけ抉って持っていけばいい!」

吐き出された慟哭が届いた瞬間、湧き上がる衝動を押さえ込むことなく、ヴィルヘルムは動いた。

「…言ったでしょう。たとえ君自身であっても、私から君を取り上げることは許さないと」

細い腕を取り、大切な宝を自分の腕の中に取り戻す。


目の前の怪物を睨みつける。

(お前には、渡さない)







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