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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
123/242

22



大理石の硬い床を歩く、コツコツという音が聖堂内に反響した。

近づいてくるその足音を頭の片隅で認識しながらも、相手が大司教だと思っていたリュクレスは、祭壇に向かったまま、祈り続けていた。


「将軍を助けたいか?」


頭を垂れ、目を閉じるその背中へと掛けられたその声は、リュクレスの耳に届いて驚きに変わる。びくりと肩が揺れた。

大司教のものではない、濁ったその嗄声を、彼女は覚えていた。

ここではないが、それは、やはり聖堂の中で聞いたもの。伏せていた目を開き、リュクレスは顔を上げた。背中に冷たいものが伝うのを感じながら、ゆっくりと後ろを振り返る。

漆黒の髪に、炯々とした金褐色の瞳、どこか排他的な雰囲気を纏う男。

記憶のままの、得体の知れない恐ろしささえも変わらずに、彼はそこに立って居た。

カタカタと怯えが走る身体を必死に押さえ込み、リュクレスは真っ直ぐに男を見上げた。

なぜ彼がここにいるのか、どうして将軍の怪我のことを知っているのかという疑問は目の前の切実な事象に比べては瑣末なものだった。

彼は何と言った?何を知っているんだろう。

恐怖にすら打ち勝つのは、ヴィルヘルムを助けたいと思う気持ちだけ。

「助けたい、です。ヴィルヘルム様の怪我の具合を知っているんですか?」

男は眩しそうに目を細めた。金色の瞳はどこか懐かしむような色を浮かべ、けれど、片方の口角を引き上げた非対称の笑みは酷く歪に見えた。

「傷は深くない。だが、毒に侵されている。致死量の毒に耐えられるのは数日だろう。なんの毒か特定できなければ、彼は数日後には死ぬ」

ひゅっと、リュクレスは息を飲んだ。

「貴方が、ヴィルヘルム様を…?」

男はそれには答えず、無言を通した。その瞳にあるのは明らかな肯定。

死神の鎌が鎌首をもたげる。それは、今まさにヴィルヘルムに振り下ろされようとしている。

黒い幻想。

顔色を失ったリュクレスに、男は続けた。

「彼の身体を蝕むのはヒュバルの毒だ。解毒草は…」

「クラハグサ…」

呆然と、うわ言のように唇は答えを紡ぐ。金褐色の瞳が細められた。

「正解だ。この解毒薬は作り置きできない。だが、この黒い森には自生しているな。今から探せば間に合うだろう」

「!」

「待て」

言葉すらなく、立ち上がりながら、まろびでるように駆け出そうとしたリュクレスの腕を男が捕らえる。

「は、離してくださいっ!」

リュクレスは振りほどこうとするが、その手はびくともしない。痛いほど握りこまれ腕が痺れる。痛みに顔をしかめると、少しだけその力がゆるんだ。

「取引をしよう」

無表情で、抑揚のない言葉がリュクレスに対して落とされる。それは有無を言わせない響きを秘めて、鼓膜を揺らした。

「彼が助かれば俺の言葉が事実だと知るだろう。3日後、黒の森に来い。白い花を道しるべに置いておく」

「嫌ですっ!行きませんっ!」

拒絶する声は決然として、意志を持ったリュクレスの瞳が美しいほどに輝く。

その光に、引き寄せられ魅惑される者がいることを、彼女は知らない。

「来なければ、この国は戦争になるぞ。虎視眈々と狙う国々に将軍が倒れたことを伝えたとしたら…オルフェルノはどうなると思う?助かったばかりの将軍は怪我を押して、前線に出るんじゃないのか。…今度こそ、死ぬかもな」

「!!」

冷たく、平淡に、彼女を絶望させるように男は言った。焦燥を煽りながら、絡め取るように金色の目は少女を追い詰める。

「君が俺の元に来るのなら、将軍が倒れたことは伏せておこう。俺の言葉が嘘か誠か、解毒草を持っていけばわかる。将軍の命と引き換えだ。忘れるな。…3日後、待っている」

告げられる言葉がまるで予言のように、男の瞳にはその未来だけが映っている。

見下ろされる金褐色の瞳にそれを見て、リュクレスは否定するように首を振った。

腕を離され、リュクレスは男からよろけて離れる。倒れそうになるのを耐えて、足を引きずって走り始めた。振り返ることなく、聖堂を飛び出す。

彼は追ってくることはなかった。

遮られることもないのに、子供の駆け足よりもずっとゆっくりとしか走れない自分に泣きそうになる。

早く、早くっ

上がらない足を叱咤して、利かない足を引きずるように走る。

「ヴィルヘルム様…っ!」

お願いだから、間に合って…!







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