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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
111/242

14



「…侍女がこんな所に何の用だ?」

王城の中だ。

侍女の姿があっても、別段おかしくはない。だが、それが外郭内訓練場の一角となれば、少々話は違ってくる。

執務室側とことなり、こちらには見張りの兵士は立っていない。外郭の外側へ広がる広場と繋がる開放区域となっているためだ。兵士を恋人に持つ侍女や思いを寄せる兵士がいる侍女などの姿がないこともないが、臆面もなくやってくることはない。こっそりと言うのが暗黙の了解である。だが、その娘はこそこそした様子もなく、きょろきょろと周りを見回し誰かを探しているようだった。

ベルンハルトの目だけでなく、場が場なだけに妙に目を引いてしまっている。だが、その視線が好奇の目というよりも、心配しているような眼差しなのは、その侍女の容貌があまりにも幼げだからなのだろう。

兵士の一人が、娘に声を掛ける。ほっとしたように微笑むその顔は…遠目にも花の綻ぶような可愛らしいもので、彼の頬に朱が走ったのをベルンハルトは少し興味深そうに見つめていた。

恋人が見つかったのか、そう思ってみていると、その兵士はベルンハルトの方を見て、それから娘に何か話しているようだった。兵士に促され、こちらに向かってくる。

「将軍を探しているのではないでしょうか?」

側にいた兵士の一人が、ベルンハルトの訝しげな表情に答えるように、声をかけてきた。

「ん?何故?」

「今将軍の資料室の整理を手伝っているらしいです。見張り兵の中では有名なんですよ、彼女。王妃の推薦らしく、外郭に来ることも多くなりそうだからよろしく頼むと言われました。…とても、可愛らしい娘さんですよ」

…ここに居る男もどうやら、あの笑顔に撃ち落とされた一人らしい。

やってきた兵士が敬礼する。それに軽く返して答えると、兵士とその後ろに控える侍女を交互に見やる。

「どうした?」

「はっ。王妃より侍女の方が手紙を預かってきたそうです。直接、将軍に渡してくれと言われたそうで」

「ははん。それで、ヴィルヘルムを探してたのか」

「そのようです。私では将軍の居場所はわかりかねますので、副官の元にお連れしました」

きょろりと視線を侍女の方に投げれば、彼女は緊張した面持ちで大事そうに手紙を抱え、真っ直ぐにベルンハルトを見つめていた。

目を奪われる。

…澄みきった早朝の空のような透き通る碧、宝石というには余りにも豊かな精彩。温かみのある穏やかな瞳に、青が透過すると淡く柔らかく水のような色合いを帯びるのかと、ベルンハルトは一種の感動さえ覚えた。

感嘆に、一瞬言葉を失う。

柔らかく艶のある黒髪が、藍緑の宝石を収める天鵞絨のようにその色彩を、一層引き立てる。全体に幼い印象は変わらないのに落ち着いて見せるのは、その瞳のせいだ。

その類まれなる瞳に、彼女が誰か、把握する。

「副官?」

無言のままのベルンハルトに、兵士が訝しむように声をかける。

ベルンハルトは自分の中の動揺を部下に悟らせないように、ゆっくりと口の端を引き上げた。

「貴女がリュクレス嬢か」

「は、はい」

「ご苦労だった。彼女は俺が預かろう。訓練に戻っていいぞ」

「はっ。…じゃあ、またね」

「はい。ありがとうございました」

ベルンハルトに返事をした後に、彼女に向けて片目を瞑った兵士は、足取りも軽く去っていく。

丁寧にお辞儀して返す娘は、その後ろ姿を見送ると、ベルンハルトに視線を戻した。

それを確認して、手のひらを上にしてちょいちょいと人差し指で娘を招き、訓練場の隣、戦術訓練用の小部屋にまで案内する。

入った途端に、僅かな埃っぽさと、紙とインク特有の匂いが鼻腔を擽った。

壁に貼られた東西と、南の大陸を俯瞰した世界地図。

中央に置かれた木製の円卓には、方位磁針と、やや乱雑に転がるチェスの駒。

水晶の文鎮や、星の早見表が使ったあとのままに、机の中央に寄せて置いてある。

丸められ、紐で括られた羊皮紙の地図が数本おざなりに置かれ、今にも転がり落ちそうだ。

整理されたとは言い難い部屋だが、訓練場に比べれば無用の視線を集めることもない。

質素で、使い古された椅子の一つを彼女の前に持ってくると、ベルンハルトは座るよう勧めた。遠慮して立ったままの娘を、無理やり椅子に座らせると、宥めるようにぽんぽんと頭を軽く叩く。

「ヴィルヘルムなら、王に呼ばれている。すぐ戻ってくるから、此処で待っていなさい」

「は、はい。わかりました。…あの、すみませんでした」

「ん?」

「訓練の邪魔をするつもりはなかったんですけど…完全に邪魔してしまったようなので」

「まあ、しょうがないさ。あいつに直接渡せと言われて、此処に居るって案内されただけなんだろう?」

「えっと…そんな感じです」

「なら、貴女に非はないさ。謝る必要もない。あいつらに集中力が足らんだけだよ」

「はぁ…、でも、皆さんとても優しいから。気遣って声をかけてもらって助かりました」

ふにゃりと笑う娘に、小春日和のような柔らかさを感じて、ベルンハルトは先程から思い浮かんで消えない疑問をため息に隠した。

……おいおい、何がどうしたら、この娘を恋人にすることになるんだ?

あの男が同情で結婚を決めるとは到底思えないのだが。

まさか、絆された、とでも言うのだろうか?

「愛玩人形として高価な値段のついた娘」それには納得ができた。百聞は一見にしかずというが、確かに、この瞳は美しい。全体に可憐な容姿の娘は、その手の趣味を持っていないベルンハルトをしても鑑賞に耐えうると思えた。

そして、年若いあの兵士たちにとって、この娘は恋に落ちるだけの魅力を持っている。細く華奢なその姿は庇護欲を誘い、あの微笑みは、不器用な青年たちを恋に突き落とすだろう。

だが、それがヴィルヘルムとなれば、話はどうか。

将軍がこの娘を特別に思っていることは確かだ。だからと言って、

(あの男が、可愛いばかりの娘に恋に落ちるとは思えないんだが…)

「将軍も、かな?」

「え?」

「将軍も貴女に優しいか?」

リュクレスという娘はその瞳を揺らめかせることなく静かにベルンハルトを見上げている。

その眼差しに、心の中を覗き込まれるような思いに陥る。

試すようなことをしているのは、こちらのはずなのに。

男の緊張感に気がついたのか、柔らかいばかりの微笑みが返された。

「将軍様は誰にでも優しいですよ?」

この穏やかさが偽りであったならば、相当な悪女だろう。

彼女の眼差しに嘘はない。だが、巧妙に思慕か恋慕か、その思いが一方的なものか否か伺わせない言葉を選んでいる。

(馬鹿ではないらしいな)

外見通りの子供じみた行動はない。言葉も行動も、状況を確認して選んでいるようだ。

だが。

「…人殺しを職業とする軍人を優しいとほざくのは、無知か無神経な人間だけだと思うが、あんたはどちらだ?」

ベルンハルトは思わず皮肉をもらした。手厳しい言葉は、少々綺麗事が過ぎると感じたからだ。選ぶ言葉は悪くないが、持ち上げられても、不愉快なだけだ。

それを知らずにその言葉を、ヴィルヘルムへと投げつけるのであれば、この娘はそばにいるべきではないだろう。

いつか、冬狼の凍てつく吹雪に、震えて逃げていくだけだ。

明らかに侮蔑を込めて、彼女を見つめていたはずなのに、言葉は娘を傷つけはしなかったようだ。娘は怯むこともなく、濁りのない透明な眼差しを向けたまま。

そこにベルンハルトを非難する色はない。

「……その手が血に汚れようとも、将軍様が守ったものは国であり、民です。将軍様が、貴方が、人を殺すことを、好き好んでいるとは思えないんです。誰かを守るために、誰かの命を奪い、その重石を背負う人を、…私は優しいと思う。私は、自分勝手なんです。自分を、故郷を守ってくれた将軍様を悪くなんて思えない」

可愛らしい声は穏やかに、そして清真な思いを伝える。

「国を守ってほしいと望みました。助けて欲しいと、願ったんです。何もできない私と、その手でそれを為す軍人さんたち。貴方たちを人殺しというのなら、それを願うだけで手を汚さず守られているだけの私は無知でも、無神経でもなく、ただの卑怯者、です。

…だから、副官様、どうぞ、お願いします。貴方達が奪うばかりでなく、守ってくれた命があることを、どうか忘れないで下さい」

視線をそらさずにそれだけ言い切ると、リュクレスは深々と頭を下げた。

「…なるほどな。それが、囮を受諾した理由か。…そして、その罪悪感で、あいつは貴女を婚約者にしたわけだ」

娘の献身は偽りではないのだろう。ヴィルヘルムがその献身に報いるために、彼女と婚約したのであれば納得できた。

確かに報いるに足る娘なのかもしれない。確かに王の言うとおり、とても誠実な子だ。

「それは…」

答えようとしたリュクレスの言葉は、ノックの音に遮られた。

返事を待たずに開かれた扉の前には、穏やかな表情を浮かべた紺青の髪の男。

王城でその髪色を持つ者はただ一人。右耳に光る白銀のカフスに冬狼の意匠。

「早かったな」

「取りに行ったものがこちらにあると言われたので、早々に戻ってきたのですが。…ベルンハルト、リュクレスに何を言った?」

「あ、あの」

ヴィルヘルムの声音の変化に、リュクレスが立ち上がり、慌てて取りなすように声をあげる。

たった数歩でリュクレスの傍にやってきた男は、安心させるように娘の肩に手を置いて一度にっこり微笑むと、切り返すように切れ味の良い眼差しをベルンハルトに向けてきた。

…誤魔化しはきかないようだ。

「確かに優しい娘だとは思うが、罪悪感で彼女を妻に迎えても、この先お互いに幸せになんてなれないんじゃないのか?」

部下としてではなく、友人として、一言言っておくべきだろうと思って口にした言葉は、短い沈黙の後、悪友の緩やかな苦笑いで受け止められた。

「言っとくが、俺はこの子が欲しくて求婚したんだが?」

「……は?」

「誤解しているようだが。彼女に抱いているのは罪悪感なんかじゃない、れっきとした恋愛感情だ。いくら俺でも、贖罪で求婚するほど失礼な男じゃない」

じんわりと頬を赤く染めてゆくリュクレスは、それでも俯くことなく、ヴィルヘルムを見上げていた。肩に置かれた手にそっと自分の手を重ねる。

そんなささやかな接触に、ヴィルヘルムがうっとりと微笑む。

柔らかく、見たこともないようなその笑みに、ベルンハルトは目を疑った。

「君も私が君の虜なのだと、自信を持って公言してくれていいですからね?」

「ヴィ、ヴィルヘルム様…」

ベルンハルトの前で甘い言葉を告げる悪友に唖然としつつ、顔を真っ赤にしておろおろする娘が少し可哀想になって、ベルンハルトは参りましたと両手を挙げた。

誤解。まさしく、誤解だ。

ヴィルヘルムがその美貌に蕩ける様な表情を浮かべ、露骨なほどに男の顔をして娘を見つめる。その瞳に宿る生々しいほどのその情火。

ヴィルヘルムの本気は十分理解した、これ以上はあまりに娘に申し訳ない気がしてきた。

「わかった、わかった。俺の誤解だ、悪かったな、リュクレス」

身の危険を悟ったのか逃げ腰だったリュクレスがほっとしたようにベルンハルトの言葉に首を振った。

「い、いえ。気にしてませんから」

隣に立つヴィルヘルムが眼鏡越しに面白そうに目を細めた。

「折角なのだから、一つ貸しにしておきなさい。ベルンハルトはいざという時に使えますよ」

さらりと言われた上司の言葉にげんなりするが、間違いなくこちらに非はある。娘への貸しならばまあいいかと、ベルンハルトは頷いた。

「まあ、困ったことがあれば、頼ってくれ」

「…ありがとうございます。よろしくお願いします」

いえ、そんなと、遠慮を繰り返していたリュクレスだったが、男たちが言葉を翻さないと感じ取ると、諦めたのか、ほんのりと困ったように微笑んだ。






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