花の宮で、 小板橋 真悠
映画って丸々一本ちゃんとみたことないんだよね、と言ったのは彼女だった。私の受け持つ情報部の生徒たちが帰ったあとの高等部の校舎の三階にある第一PC室で、私はずかずかと入ってきた挙句にパソコンをいじるでもなく教員用のパソコンに最も近い位置の回転いすに座ってぐるぐると回りながらそんなことを言っている彼女の話を、同じく情報部の部員の作業進歩を確認しながら「どうして見ないの」と尋ねた。興味があったというという訳ではなく、単なる返答として。
目の前の彼女は、最近よく話すようになった生徒の一人だった。夏休みから星花女子学園の高等部に編入してきた、自由奔放な金髪の炎上アイドル。中等部の職員室でその話を聞いた時は、正直 規格外の問題児を多く相手にする高等部の教員たちに深く同情したものだった。
情報部の部員たちに出した課題の進歩を確認するためにカチャカチャとキーボードを叩きながら相槌を打つ私の姿を見て、彼女はげらげらと笑いながら「全然興味ないじゃん!」と明るく言っていたような気がする。今考えても、彼女の発言はおおよそ目上の人間や教師に対するきちんとした話し方だとは到底思えないのだけれど。
「えー、てか、小板橋先生は映画とか見んの?」「人並みに」「マジ? ラブロマンスっすかァ?」「内緒。……と言うか、あなた部外者でしょ。勝手に部室に入ってこないの」「ギャハハ、部活動見学でーす!」
回転いすに座りながら人懐っこい笑顔でそんなことを言う彼女に「転入してからもうずっと部活に入っていないのに?」と返して再びパソコンの画面に視線を戻せば、彼女はその金色の短い髪を揺らしながら「言うじゃん」と楽しげに呟いた。
私と彼女しかいない第一PC室のエアコンが、ぶうんと低く唸り声をあげる。彼女は音のした方に視線を向けると「ここ、涼しくて最高だね。私立のパソコン室ってみんなこんなもん?」と呟く。さあねと返した私の声には、どうやら彼女は興味がないみたいだった。
────どうして見ないのと彼女に尋ねたのは、単なる気まぐれのようなものだった。あるいは深入りされる前にこちらから線引きをしてしまおうと言う心の防衛本能がさせたことだったのかもしれない。それさえも、今となっては確かめようのないことなのだけれど。
そんな私の気持ちなど露知らずにぐるぐると回転いすに座ってまわっていた彼女は、まさか私に質問されるとは思っていなかったのか「おぉ?」と少し間の抜けた声を上げて。回転いすを止めると「興味あんの?」と小首を傾げる。そんな動作も絵になるのねと思いながら「そうね」と相槌を打てば、彼女は何がおかしいのかゲラゲラと笑いながら、ほんの少し幼さの残る澄んだ声で「いやそれ興味ないときのやつじゃーん!」と言った。
「エンドロールが苦手なんだよ」「……そう」「……すっげーヤなこと考えたんだけど、今そんな繊細な心あるんだって顔しなかった?」「さて、どうでしょう?」「げー、大人ってこれだからやだよ。……っと、やべ馨さんだ」
彼女はため息をついたタイミングで鳴った携帯電話を耳にあてれば、電話口のほうからは「蜂谷ァ! あんた今どこにいんのよ!」と耳を劈くような怒鳴り声が聞こえてきて。その騒がしいやり取りに思わず眉間に皴を寄せれば、目の前の彼女は「あーごめんごめん! 今いくわ」と言うと「んじゃーね、センセ」とするりと教室を出てゆく。私の返事なんて待たずに去ってゆくその様子は、まるで気まぐれな猫を思わせた。
────今思えば私は、結局 彼女に映画を最後まで見ない理由を聞かなかった。聞いても仕方がないと思って聞かなかったのか、それとも聞けなかったのか、あるいはもっと別の何かだったのかは今となってはもう解らない。例えるのなら私と彼女の関係は長い長い夜の中で見たひとつの夢のようなもので、夢の中だからこそお互いのことをあまり知りたくはなかったのかもしれない。
私たちの関係は、心の柔い輪郭を互いの指の腹でそっとなぞり合うような関係にも、かといってすべてを捨てても良いと思うほどの熱を持った関係にもなれないままだった。それはきっと、彼女も私もすべてを捨てて良いと思うには無くしたくないものや大切なものがあまりにも増えすぎてしまったからなのかもしれないけれど。
DVDの収納棚には今まで見たことが無かった映画が増えて、CDの収納ケースには聞いたことが無かったCDが増えて。それなのにきっと、私だけが彼女に貰った形のないものの輪郭をなぞって、エンドロールに近づくたびに巻き戻そうとしているのかもしれない。
それでもきっと、エンドロールの後に物語が続くようにもしも私と彼女の人生に柔らかな未来があるのなら。もしもそれを、言葉として表すことが出来たのなら。あの時の私は彼女に、教師として、大人として、どんな言葉を贈ることが出来たのだろう。……どんな言葉が、正解だったのだろう。
私はテレビのリモコンを手に取ると、赤いボタンを押してテレビの電源を切る。真っ暗になった画面には私一人が静かに映っていて、そんなことは当たり前なのに妙に虚しさだけが残っていた。




