最後の森と小人さん ~むっつめ~
『ここは.....?』
気がつくと、千尋は真っ暗な空間にいた。
上も下も分からない奇妙な空間。微かな風の啼く音が、辺りに響いている。
それでも進行方向があるようで、落ちているのか進んでいるのか判断がつかないが、ふわりふわりと小人さんの身体は動いていた。
惰性に流されるまま、たゆとうていた小人さんの視界に煌めく何かが見える。
遠目にも鮮やかな銀の網。
そこから、今度は微かな声が聞こえた。
歌うような、笑うような暖かい声音。
その楽しそうな声につられ、小人さんは銀の煌めきへと吸い込まれていく。
ぽふんっと着陸した網は、大きく波打ち、その揺れに気づいた何かが、一斉に千尋を振り返った。
そこに居たのは二人の人間と、八つの眼を持つ大きな蜘蛛。
《そなた....? どうやって、ここへ?》
見るからに狼狽えている蜘蛛はジョーカー。実体ではないのか、微かに発光するワサワサした体毛が小刻みに震えていた。
その側にいるのは、見事な金髪の髪を持つ女性と子供。この二人にも千尋は見覚えがある。
『ハビルーシュ妃..... と、ファティマ? まさかっ?!』
目の前には見知った女性と自分そっくりな女の子。違いは眼の色くらいだろうか。
『ジョーカー、ここは一体何?』
慌てる千尋に、件の蜘蛛は呆れたような眼差しで答える。
『ここは深淵。全ての世界が繋がる神々の領域だよ。そなたこそ、何故ここに? まさか、死んでしまったのではあるまいな?』
聞けば、ここは不要とされたモノを処分する底無しの闇。それらが合わさり、時折とんでもない化け物が生まれたりもするため、各世界の神々が虜囚を番人として置いているのだとか。
『ああ、そっか。ジョーカーも、ある意味、虜囚だものね』
《まあね。それに、世界の崩壊から魂を救済するため、深淵に網を張るのは、私の仕事だしね》
ある物語のクトゥルフ神話に出てくる大きな蜘蛛の御先。それがジョーカーだ。
ツァトゥグアと共に深淵に幽閉された御先。それは実在する信仰の神々ではなく、創作物に登場する神々。
しかし、神が実在するという根拠はなく、大きく括ってしまえば、現存する宗教や信仰の殆どが創作物とも言える。
その中で、物語として現存する彼等が、信仰の対象となり、実体を持ったとしても、おかしくはない。
アトラク・ナクア。それが地球での彼女の名前だった。
彼女の網が完成した時、世界は滅ぶ。世界が滅ぶからこそ、彼女は深淵に網を張るのかもしれない。
卵が先か鶏が先か。
諸説諸々あるが、こうして彼女の網が完成していると言う事は、世界の滅亡が避けられない事を意味している。
茫然と銀の網を見つめる千尋に、ジョーカーが近づいた。
《ここは死者や亡者の棲まう空間。何故そなたが堕ちてきたんだい?》
『わかんない。気づいたら、ここに居たの』
辺境伯邸でシリルに逢ったまでは覚えている。その後、何が起きたのだろう。
そこまで考えて、千尋は、はっとハビルーシュ達を見た。
『ハビルーシュ妃にも何かあったの?』
幼女の言わんとする事を察し、ジョーカーは小さく首を振る。
《いや。何故かわからないが、この御仁は夢と現の間に棲んでおられるようでね。現実の意識が途切れると、こちらに迷い込むようなんだよ》
って事は、死んだ訳ではないのか。
思わず大きな溜め息をつき、千尋は安堵に胸を撫で下ろした。
ファティマは死者として判断されたのだろう。彼女の網が完成していて、本当に良かった。
あれやこれやと頭を巡らせる幼女に、ハビルーシュは首を傾げる。
『貴女はどなたかしら? わたくしを御存知なの?』
おずおずと掛けられた言葉に、千尋は眼をパチクリさせた。
え? 気づいてない? 晩餐会でも会ったはずなんだけど?
その疑問を察したのだろう。ジョーカーが、さも面白そうに、くつくつと笑っている。
《言っただろう? ここは神々の領域。現世の器は関係ないんだよ。いまのそなたは黒髪に黒い瞳の妙齢な女性だよ》
言われて千尋は自分の姿を確認した。
髪を掴むと、そこには真っ黒で硬めな髪。そしてそれを掴む指は長く、幼女のモノではない。
この領域では前世の姿が反映している。
驚き、言葉もない千尋に、蜘蛛はあらためて事の経緯を聞き出した。
《なるほどね。それで意識を失ったと。その時に何かを使われたのかもしれないね》
『現世のアタシが死んじゃったって事?』
情けない顔で取りすがる千尋を一瞥し、ジョーカーはハビルーシュ妃に視線を振る。
《いや.... そなたからは、この御仁と同じ匂いを感じる。なにがしか神々の関与で、ここに来たのかもしれないね》
それを聞いて、千尋もハビルーシュ妃を凝視した。
ロメールの話では、知的障害があり、何時も夢現で、とりとめもない事ばかりをする女性なのだと聞いている。
その精神的な曖昧さから、この領域に紛れ込んだのかと思っていたが。
彼女とアタシに同じ匂いがする?
どういう事だろう。
考え込む千尋をジョーカーは静かに見守っていた。
気づくだろうか。今が千載一遇のチャンスだという事に。
神々の不文律は、御先にも当てはまる。神々の御意志を伝える事は出来ても、世界の理に関する助言は出来ない。
じっと見つめる八つの眼に気づかず、千尋は小首を傾げてファティマを見た。
途端、虚無であるはずの深淵に、甲高い音が鳴り響く。
まるでガラスを叩くかのように透き通った美しい音色。
それに気を取られつつも、千尋は己の左手が発光しているのに気づいた。そしてファティマの右手が発光している事にも。
あ、あああ、そっかーっ!!
『ファティマっ、その右手を少し貸して欲しいんだけど良いかなっ?』
ハビルーシュ妃に抱かれていたファティマは、にこっと笑って右手を差し出してきた。
『ヒーロ、ちゃい。お腹空いてないの。ここ、暖かいの。ファティマ平気。ヒーロも平気?』
無邪気な幼子の言葉。その言葉で、千尋の脳裏に王宮での死に際の記憶が、ぶわっと甦る。
ああ、そうだ。あの時、ファティマはひもじくて、渇いていて、寂しさに押し潰されながら消えていった。
それが根強く残っているのだろう。
ここは暖かいか。あの時は飢えも手伝って、凄く寒かったものね。
そしてファティマは、目の前の自分が千尋なのだと知っていた。共にあった魂なのだと。
差し出されたファティマの右手に自分の左手を合わせ、千尋は切なげに顔を歪めた。
『助けてあげられなくてゴメンね。ほんと、ゴメン』
すると合わさった掌から光が立ち上ぼり、二人が包みこまれる。
溢れるような光が零れ、霧散すると、そこには一人の幼女。
ジョーカーの前には、黒髪に金の瞳の可愛らしい子供が立っていた。その小さな両手には金色の魔力がみなぎっている。
《やれやれだね。これで子守りからも解放されるよ》
ぶっきらぼうな彼女の呟きに、一抹の寂しさを感じたのは気のせいだろうか。
『何が起きたの? ファティマは?』
あわあわと辺りを見回す小人さんの胸を突っつき、ジョーカーはニヤリとほくそ笑んだ。
《ここだよ。あの子は、そなたの中に戻った。連れて帰っておやり》
千尋は自分の胸を抑えて、その暖かい鼓動に耳を傾ける。
戻った? 本当に?
《ふむ。なるほどね。そなたは死んではいない。どうやら薬の効きすぎで一時的に自我が消失しているようだ。神の左手の再生力が、そなたの身体を維持している》
ジョーカーの頭にいる小さな蜘蛛が、手足をわちゃわちゃさせながら、何かを伝えていた。
《悪魔の右手を得た今のそなたなら、薬の効果も相殺出来よう。早く身体にお戻り》
そう言うと、ジョーカーは千尋の身体を糸でぐるぐる巻きにし、力任せに振り回す。
『へぇぁ? うわわわっ!』
振り回された遠心力のまま、千尋の身体は上空へ投げ出された。
ぷつりと糸を切り、投げ出した千尋を見送る巨大な蜘蛛。
《深淵の縁から出れば勝手に身体に戻れるから。お気をつけな》
精神的な領域のくせに、帰還手段は物理なんかーいっ!!
キランとお星様になった幼女を見送って、ジョーカーはハビルーシュ妃を見つめた。
何が起きたのか分からないまでも、ファティマを失った腕の中の消失感に物憂げな美女。
多分あんたも、近い未来、ここには来なくなるんだろうね。
虚無の深淵に幽閉された虜囚、アトラク・ナクア。
その凄まじい孤独を、一時でも癒してくれていた二人の来訪者に、彼女は心から感謝していた。
願わくば、彼の二人に幸せな未来が訪れんことを。
夜が明けたのだろう。ハビルーシュの姿が曖昧にぼやけ、次の瞬間、ふわりと僅かな風を残して霧散する。
神々の領域である深淵を訪れるなど、本来なら有り得ない事だ。
なにがしかの神の御意志が働いている。
真っ暗な空間に煌めく銀の網に横たわり、ジョーカーは思考の海へと沈んでいった。
終わりのない知識の集積、研鑽。
悠久を生きる神々とともに、彼女もまた、世界を見守り続けている。
その一助にでもなればと、ジョーカーは己の知識を総動員して、か細く揺れる滅亡回避の糸口を探していた。
だが、彼女は知らない。
無自覚に最強な小人さんが、その糸口を既に掴んでいる事を。
真の欲張りは世界を救う。
全てを思うがままにしたい、誰よりも貪欲な小人さん。
美味しい物が食べたい。皆と幸せになりたい。楽しく日々を送りたい。
そのどれもを諦めない。
虚無の虚空を、かっ飛びながら、今日も小人さんは我が道を征く♪




