act.98 謎の力
イグナールの下顎を襲った衝撃の正体はクルトの左から繰り出されたショートアッパーだった。短剣の刃を恐れ、内側に入ったことにより、彼の左の間合いに入り込んでしまったのだ。
視界がちかちかと歪む。意識を飛ばされるほどの威力ではなかったが、面食らったのは間違いない。だが連撃を喰らうのはまずい。
イグナールは後方に飛び退き間合いをとる。しかし、こちらの体勢を整えさせまいとクルトが迫る。紫電の身体能力強化によって速さを手に入れたとはいえ、脳が即座にその速さに適応したわけではない。
高速戦闘にまったく追いつかない思考が逆に邪魔をしているようだ。
現状イグナールにとってクルトは完全に格上だ。実力も戦闘経験も、人を殺す覚悟も。そんなイグナールが頭の中をこねくり回したところで、この状況を打破する妙案が浮かぶはずがない。
考えれば考える程に勝てないと言う事実が如実になるだけだ。だから――
イグナールは目を瞑り全身の神経に集中する。考えるな、感じ取れ。己だけを信じろ。
すると右斜め上方向からゾワリとした感触を感じた。得体の知れない初めての感覚ではあるが、直感でそれが危険だと全身が警告を発した。その身体からの声に素直に従い、姿勢を低くする。
目を開け上方に視線をやるとクルトの左足が頭上を通過している途中であった。先程まで頭があった部分を、空気の壁を切り裂くような音を鳴らしながらクルトの蹴りが捉えていた。
間近で見たからわかる、間近で見たから感じる。あんなものをまともに貰えば昏倒では済まない。良くて頭蓋骨粉砕。最悪、大輪の血の花が咲くことだろう。
だが、大振りの左回し蹴りが外れた今、クルトは無防備な状態と言える。必殺と言っても過言でもない一撃を放ち、それを外した衝撃もあるはずだ。
イグナールは剣を強く握り、クルトの胸めがけて突き上げた。頭や首を狙う方が確実だろうが、命中の面で見ればこちらの方がいい。欲張るな、胸でも腹でも突き刺さればそれは致命足り得る。
もう一人の男、ラウレンツがモニカのように優秀な回復魔法を持っていなければの話ではあるが……
足のバネを限界まで縮ませ、紫電を纏い、下から降り注ぐ雷と成れ。今の渾身をぶつけろ。
剣の切っ先がクルトの胸を貫く、そう確信した。
だが、その切っ先は彼を貫くことはなかった。それどころか、どんどんクルトが遠くなって行く。
どういうことだ⁉ 奴は動いているようには見えないのに!
――ドン‼
イグナールは後方の木にぶつかった瞬間、クルトが遠のいたのではなく、自分が吹き飛ばされたのだと、ようやく気が付いた。




