98 : 月明かりでダンスを
「俺がいなくても、淋しくなかったんですか?」
自分がこんなに臆病だとは、知らなかった。
いつもいつも、ノイの反応に怯えた。
何を言っても、何を言われても、心が動く。
(淋しかったと、言ってほしい)
カルディアは身を引き裂かれるかと思うほど、辛かった。何度アイドニの客室のドアを蹴破ってやろうかと、何度王宮魔法使いに混ざってやろうかと思ったかしれなかった。
ただ、カルディアがこんな思いをしているのに、ノイがもしいつも通り笑っていたら――カルディア以外の人間に、あのタンポポの笑顔を向けていたら――そう考えると足が震えて、自ら会いに行くことは出来なかった。
カルディアがどれだけじっと見つめても、ノイは返事をしなかった。
一秒でも早く、淋しかったと言ってほしかった。
こんなに焦がれる時間はもう、今後の人生でないとすら思った。
「――カルディア」
吐息混じりの声で、名前を呼ばれる。
風に紛れて消えてしまいそうなか細い声は、けれども凜としていた。
カルディアはぐっと唇を噛んだ。
怖さと高揚に、心臓が不規則な音を立てる。
横を向いていたノイは、秋風に髪を靡かせながらカルディアの方を向いた。灯りがふわりとノイに近付くと、彼女の頬に涙の痕を照らし出した。
木々に隠れていた月が、ゆっくりと顔を出す。
息を呑んだカルディアに、月明かりを受けたノイが笑う。
涙を零しながらも――いつものような、タンポポの笑顔で。
「カルディア! 大好きだ!」
ぶわりと、湖面に強い風が吹いた。
二人の髪や服が風で煽られる。
木々が葉擦れの音を奏で、舞う葉が湖面を撫でる。
カルディアはその瞬間、息をするのを忘れていた。
ようやく呼吸が出来た時には、突風は止んでいた。
口元に手を当て、ずるずるとしゃがみ込む。
カルディアの服が、湖面に広がった。
「カルディア?! どうした!?」
慌てた様子でノイが駆け寄ってくる。
カルディアは自分の手で顔を隠し、ノイの視線から逃れるように身を捩った。
(……なんだ、これは)
己の顔が尋常ではなく熱い。
今、とてもではないがノイの顔を真っ直ぐに見られる気がしなかった。
(……なんなんだ)
カルディアの心臓が痛いほどに暴れる。
何の衝動かは、わからなかった。
ただ、ノイを抱き締めたかった。
***
「大丈夫か? カルディア」
カルディアに駆け寄ったノイは、彼を助け起こそうと手を差し出した。ちらりとノイに視線を向けたカルディアは、迷った様子を見せた。
「……あぁ。触りたくも、ないか?」
恋するノイが気持ち悪いのかと、手を引っ込めようとした彼女の手を、カルディアが掴んだ。しかし、ノイの手に全く頼らずに、自力で立ち上がる。
立ち上がったカルディアは、ノイをじっと見下ろした。
ノイもじっと、自分の手を見つめる。
(……離れ、がたいな)
久しぶりに握ったカルディアの手は、触れ合う場所からじんじんと甘い痺れをもたらした。幸福が舞い込み、涙となって胸の奥から押し出される。
(けど、離さねば……)
カルディアは嫌がるだろう。そう思ったノイが手を引き抜こうとすると、ノイを掴んでいたカルディアの指に力が籠もった。
驚いて、ノイは硬直する。
(……なんだ、それ……)
そんなことをされたら、期待してしまう。
今だって、彼の言葉一つ一つに期待しないよう、必死なのだ。
カルディアの言葉は優しく、ノイの傷ついた心を癒やす。
そして、寄りかかろうと、甘えようとする度に、傷を抉られる。
彼の与える優しさは、愛であって、恋ではないのだと。
けれど、これは違う。
(こいつは一体、どんなつもりで――!)
ノイは伝えているのだ。
好きだと、恋がほしいと。
(からかってたら、いくら私でも許さないからな!)
喜びと怒りで赤らんだ顔で、ノイはキッとカルディアを睨み付けた。
――そこには、深紅の瞳に熱を灯し、真っ赤な顔でノイを見下ろすカルディアがいた。
呆気に取られたノイの腰が、かくんと抜ける。
膝から倒れそうになったノイの足が、水に濡れる。魔法を掛けているのは靴なため、その他の部分は湖面を通り抜けてしまう。
「ノイ?!」
湖に沈んでしまいそうだったノイの腕を、カルディアが咄嗟に引いた。
ぐんと腕を引っ張ったカルディアは、そのままノイを抱き上げた。いつものように、片腕で。
月明かりが照らす湖の真ん中で、カルディアがノイを抱き上げていた。
ノイはカルディアを見下ろし、柔らかな月の明かりを受けるカルディアの頬を自分の親指で撫でた。
「お前、なんて顔してる……」
ぼんやりとノイが呟くも、カルディアは意味がわからないようで、眉根を寄せるだけだった。その困り顔は、月明かりでもわかるほどに真っ赤だ。
眦が熱を帯びている。
ノイと同じ、熱を。
「私の事、好きなのか?」
まるで恋を知りたての少年にしか見えないカルディアに、ノイがそっと尋ねる。
「なっ――違う!」
唖然としていたカルディアは、強く否定した。
もしこれを、いつものカルディアの顔で言われたら、ノイの心は悲しみに潰されていたかもしれない。
けれど、こんな顔で言われても、ノイには全く響かなかった。
「そんなわけが――違います。俺のノイへの想いは、そんな。そんな軽いものじゃない」
いつも何処か余裕のあるカルディアが、しどろもどろに早口で答える。ノイは優しく尋ねた。
「軽い?」
「恋なんて、一過性のものでしょう。これまでにも俺のことを好きだと言った人もいた。ですが誰も、十年も持たなかった。二十年後には、その話題に触れることさえ嫌がった。俺のノイへの想いは、そんなものとはまるで違う。百年も続いてるんです。恋なはずがない」
酷く苦しそうに顔を歪めて、カルディアが一息に吐き出す。
「それに恋は、見返りを求める。俺は……ノイから何も、奪いたくない」
その声は、切実な響きを放っていた。
(……お前はいつも、恋の話題を持ち出された時――誰かに何かを、奪われている気分だったんだな)
ノイはカルディアの首にそっと抱きついた。この、ノイの何倍も生きている男性が、まるで傷ついた少年のように見えたのだ。
抱きつかれていたカルディアは、一瞬びくりとしたものの、ノイを払いのけようとも、下ろそうともしなかった。
固まってしまったかのように直立するカルディアの顔を覗き、ノイは真っ直ぐに口を開いた。
「――カルディア。キスしてみないか?」







