87 : 恋はいらない
ノイの恋は、カルディアにとって「必要のない」ものだった。
カルディアがノイを大切に思っているのは、伝わってくる。ただ、彼の中にあったはずの今のノイと過ごした数ヶ月の出来事は、綺麗に「お師様」に塗りつぶされてしまっていた。
(一緒に躍った夜空も、乾杯をしたあの音も、揺れた指先の痺れも、全部)
ノイにとっては、忘れられない時間だった。二十六年間の中で、初めて抱く感情が沢山転がっていた。どんな石ころでも、星屑のように光っていた。彼と一緒なら。
一つ一つ拾い集めて、大切に磨いた。
だから、手放すことなど出来ない。
けれどカルディアにとっては、もう、必要のないもの。
(だめだ、泣く……)
ノイはぎゅっと目を瞑って、涙を押し殺した。
彼にしてみれば、瞬きほどの時間なのかもしれない。何年も、何十年も重ねてきた年月の中の、たったの数ヶ月。
墓から這い出てきた師匠が物珍しくとも、その内、今ノイを大切に思う気持ちも、数多の記憶の中に埋没していくだろう。
(……私、この恋をちゃんと、成就させたかったんだな)
恋に気づいたばかりの時は、彼に騙されていたことを知り、それどころでは無かった。
だから、驚いてしまった。
こんなにきちんと、カルディアに恋をしていたことに。
ノイはアイドニに手を引かれながら、廊下から見える星空を見上げた。
星は高い場所で輝いている。浮島ではあれほど近かったのに、こんなに遠くなってしまった。
屋敷の人間とすれ違う度に不思議な顔をされながらも、ノイはアイドニのために準備されていた部屋へと向かった。そこはノイが昨日まで使っていた部屋だった。
「わたくし、枕がないと眠れませんの」
アイドニの声は夜に似合った落ち着いたものだった。
もしかしたらアイドニは、カルディアとノイの会話を廊下で聞いていたのかもしれない。先ほどの異様なハイテンションはノイをあの場から連れ出すため、わざとはしゃいで見せたのだろう。
「私はクッションでいい。すまないな、お邪魔して」
「いいんですのよ。わたくしに感謝しながら、お眠りあそばせ」
二人して上衣を脱ぐと、ベッドに潜り込む。仰向けになった二人は並んで、天蓋をじっと見つめた。
「……アイドニ」
「なんですの」
互いに肩が触れるほど、狭いベッドではない。けれどノイの二の腕とアイドニの二の腕はほんの少しだけ触れ合っていた。その体温が、ノイの心を温かくする。
「今日、お前がいてくれて、よかった」
アイドニとは十才近く年が離れている。
こんな子どもにフォローをさせて情けない気持ちもあるが、それ以上に、彼女の存在がありがたかった。
ノイは幼い頃、友人という友人がいなかった。友人と呼べる人間はフェンガローぐらいなものだった。
そんなノイが、正しい判断を下せているのかはわからない。けれどもし、彼女との間柄に名前をつけるなら――友達、という言葉が一番相応しい気がした。
アイドニの体に力がこもったのが、触れ合う体から伝わる。
「……――ノイ様。わたくし、いつか郷を出るつもりですの」
「え?」
予想していなかった話題に、ノイは驚いてアイドニの方を見た。
しかしアイドニは真上を向いたままだ。ノイも慌てて、真上を見る。
「……わたくしの母は、曾お婆様――ククヴァイア様の孫」
ククヴァイアの子どもは既に亡くなっており、直系の子孫はアイドニの母だけだったと言う。そのため、アイドニの母が次期当主になると、誰もが思っていたのだそうだ。
「ですが母は……つむぎの郷を出ました。そして、郷の外で生んだわたくしを郷に預け、また外へ。以来一度も、帰って来ておりませんわ」
幼いアイドニに郷を任せられるようになるまでは――と、実力を考慮され、傍系のツェーラが暫定的に次期当主という扱いになっているらしい。
「母のこと、ずっと嫌いでしたわ。だって、わたくしは母を知らないんですもの。だから、ずっと周囲に言われるまま、あんな無責任な人間にはならないと――そう誓いながら生きておりました」
布団の中でアイドニが手を動かした。
ノイの手の甲に、アイドニの手の甲が重なる。
「ですがわたくし、外の世界にしかないものを、知ってしまいましたの」
吐息の中で紡がれるアイドニの決意は、か細く、けれど興奮に震えていた。
「わたくし、『生きてる』んだと。あんなに強く思ったことはありませんでしたわ。またあんな風に、ドキドキしたい……。服を作りたい」
王都での話をしているのだと、察しの悪いノイはようやく気付いた。
「あれほどわたくしを苛んでいた母への恨みが、以前王都へ行ってから……一度も、感じませんの。反対に、母の気持ちが、痛いほどにわかるようでしたわ。わたくしもう、郷じゃ、生きていけない。生きているとは、言えない」
手の甲が触れ合う手を動かし、ノイの指がアイドニの指の隙間に入り込む。
「頑張りますわ。出来ないことでも、頑張るつもりですの。頑張りたいんですの」
すっと息を吸ったアイドニは、指に力を込めてノイの手を握った。
「……だから、わたくしも、ありがとうなんですのよ」
涙が滲んだアイドニの声を聞いたノイは、思わずぽつりと呟いた。
「……お前は格好いいな」
「あら、初めて言われましたわ」
コロコロと鈴が転がるように笑う。アイドニはきっと、まず「可愛い」だとか「綺麗」だとか褒められるのだろう。
「格好いいよ。さっきも、助けてくれたしな」
カルディアにいい顔をされないのをわかっていて、ノイを匿ってくれた。
アイドニが隣で、「べ、別に」「わたくしはそんな」ともごもごもにょもにょと呟いている。
アイドニの決意に胸を打たれ、ノイは自然とこう思った。
(……私も、ここを出るか)
恋は病と言うらしい。
病はいずれ、治るものだ。
適切に時間をおいて、距離をおいて――そうして互いに大人同士として向き合えるようになる日が、いつかきっと来る。
(一度離れて、冷静になった方がいい)
考えることは山ほどある。子どもが――それも、魔法道具さえ一人で発動できない無力な幼子が、一人で生きていけるほど世の中は甘くない。
けれど今更何処かの窮屈な場所で、辛抱強く、礼儀正しく生きる姿を想像するのは難しい。
(……家を見に行くか)
ガレネー家は王都にある。家督は弟が継いでいるだろうが、途絶えたのか、未だ存命なのか、気になるところではあった。
それに王都の方が、持ってる魔法の知識を生かした仕事があるかも知れない。この辺りでは、力も魔力もないノイなんて、よくて将来「誰かの妻」ぐらいしか使い道もないだろう。
パンセリノス曰く、カルディアが返してくれた銀行カードは、残念ながら二十年以上取引がないと、口座が凍結するらしい。百年も動かしていない口座は既に無くなっているのだそうだ。ノイはフェンガローを口汚く罵った。
(……あんなに大切に思ってくれてるなら、恋心以外の全部をくれるなら。それでいいじゃないか)
そう考える自分もいる。けれどノイは、それではよくないことを知っている。
ノイはカルディアの、恋がほしいのだ。
真っ直ぐにこちらを求める、誰にも明け渡さなかった彼の恋がほしいのだ。
(あれは……恋ではない。師への思慕だ)
魔法使いならきっと、誰もが一度は抱く。ノイもかつて、その感情を祖父に抱いていた。
弟子の中で、誰よりも自分が一番可愛がられたかったし、独り立ちした夜は淋しくて鳥を飛ばした。あんなにツンケンしていた弟子が出て行って、やっと羽を休められただろうに、祖父は何も言わずに郷の戸を開けてくれて、一緒に温かいスープを食べてくれた。
(けど、今はどうだ。祖父のことなんか、日頃は綺麗さーっぱり忘れて、楽しく日々生きている)
そういうものなのだ。
それがきっと、恋と、思慕の違い。
ノイは今、カルディアのことを――文字通り、四六時中考えている。
寝る前に彼を思い、起きて彼を探し、側にいれば意識して、側にいなければ気にかかる。
彼が歩くだろうルートを先回りして、彼の帰ってくる場所で待ってしまう。
けれどカルディアは、そうではない。
そうではないのだ。
(それでもいいからと側にいて……もしいつか。今は恋を忌諱するカルディアが、恋しい人を見つけてしまったら――私以外の人を特別に扱っていたら……)
その時に、きっとノイは立ち上がれない。今のノイは何も持っていないからだ。
このまま彼に頼り切って生活していては、ノイは何も得られない。
(これからはまた、自分で自分を支え、自分の力で生きていく)
前の人生に比べれば、苦労をするだろう。後ろ盾も、強大な魔力もない。
だが――何事もきっと、やってやれないことはない。
何しろ魔王と二度も対峙して、生き残っているのだ。よほどのことでない限り、魔王を浄化させるよりも楽に違いない。
(――出来ないことでも、頑張るつもり。か)
その言葉に勇気を貰った気がして、ノイはアイドニを見た。アイドニは気付けば規則正しい寝息を漏らしながら、静かに眠っている。
ノイは首を捻って、横を向いた。
涙が溢れそうになり、ぐっと唇を噛む。
(……本当に、アイドニがいてくれてよかった)
このベッドが楽に寝返りが打てるほどに広ければ、ノイはきっと今晩一日中、涙に暮れていたに違いない。
「……カルディア」
ぽつりと零した声は、たゆたう夜の帳に消えた。







