85 : 恋はいらない
(きっと何か、理由があるはずだ)
そう考えたノイは、王国兵が自室へと下がった後、カルディアを追って執務室へと向かった。
ノイの後ろにアイドニが着いてくる。ノイはアイドニに一つ頷いて、執務室の扉を叩いた。
「カルディア、いいか?」
「はい。お入りください」
カルディアの対応に、ノイはたじろいだ。
あまりにも、何もないのだ。
国王に紹介までした婚約者を、勝手に親戚の子にしたやましさも、申し訳なさも、彼の声からは何も読み取れなかった。
ノイはおずおずと執務室に入る。カルディアが指し示すソファーを無視して、彼の側へと歩んだ。
「カルディア、私の聞きたいことはわかっているな?」
ノイが目の前にやってくると、カルディアは膝を突いてしゃがみ、ノイを見上げる姿勢となる。
「ええ、ノイ」
「私はいつから、お前の親戚になったんだ?」
「ご不快でしたか? であれば、今すぐ他の案を考えましょう」
「そうではなく!」
声を張る。しかしカルディアから、何も反応を引き出すことは出来なかった
「……私は、お前のお嫁さんだったんじゃ、ないのか?」
カルディアが初めて表情を崩した。息を呑むカルディアがあまりにも驚いている顔をするものだから、ノイも驚いた。その拍子に、ポロリと涙が零れる。
「あ……違う、これは。違う」
慌てて服の裾で目元を覆った。そんなことをしてももう無駄だろうが、隠さずにはいられなかった。
(これじゃ……バレてしまう……)
婚約を一方的に破棄されて泣くだなんて。
(それじゃあ、好きだと言っているようなものじゃないか)
ノイはこの気持ちをまだ、カルディアに言うつもりは無かった。
カルディアは、寄ってくる女性陣に嫌悪を抱いている。
今はノイを可愛がってくれてはいても、この気持ちがバレてしまえば――彼の理性の外側で、ノイも嫌悪の対象になり得るのだ。
「――っびっくりしたんだ! 知らなかったから。お、お前が、何を考えてるのかがわからなくて……」
「ご不安を与えていたのですね。すみません。先に話しておくべきでした」
ふるふると自分の裾に顔を隠したまま、ノイが首を横に振る。
カルディアはしばらくノイが裾から顔を出すのを待っていたようだが、やがて重い口を開いた。
「――婚約は解消致しましょう」
聞こえた言葉がどうしても信じられなくて、ノイは裾を目の下へとずらした。
まん丸のペパーミント色の瞳を見上げる深紅の瞳は、沈痛な光を灯している。
「俺としたことが、パンセリノスに言われるまですっかりと忘れていました――俺と貴方が、婚約関係にあることを」
何を言っているんだと憤る気持ちと、それも仕方ないと諦める気持ちが同時に湧く。
国王に紹介までされたというのに、カルディアはノイと、本気で結婚をするつもりなどまるでなかったのだから。
「俺は、魔王を殺して――自分も死ぬつもりでした」
吐息のように静かに吐き出された言葉の強さに、ノイは涙を滲ませた。
(殺されるのは、私だと思っていた……)
その間、カルディアに恋をしていたノイは苦しかった。
けれどその憂いが無くなった今、ようやっと、ただ普通に恋心を抱けると思っていたのに――
「無責任な話ですが、貴方のその後に責任を持つつもりがなかった。……けれど魔王が消失しても尚、俺も貴方も、この大地に立っている」
本心だとわかる切実さで、カルディアが語る。
「――未来を、ノイ。貴方にお返しします」
魔王に侵されかけた体で、カルディアは叫んでいた。
ノイから沢山のものを奪ったと。
そんなカルディアが、ノイに未来があると言っている。
(嬉しいはずだろう……)
師匠としてのノイは、勿論嬉しかった。
けれど彼を好きなノイは――苦しかった。
(その未来に、お前はいないのか?)
ノイがぎゅっと目を瞑ると、カルディアは慰めるような声色を出す。
「――俺にとって貴方は、この心臓に等しいお方です。貴方よりも大切な者は存在しないし、貴方以上に優先すべきこともない。だからこそ、貴方を縛り付けるための婚約はもう、不要でしょう」
ノイが当初婚約者になったのは、衣食住の保証のため。
カルディアはノイを婚約者という立場関係なく、食客として迎えるつもりだ。
そしてカルディアとしても――もうノイを無理矢理引き留めて魔力の器にする必要が無くなった。
だから「婚約はもう不要」という結果になる。
だがノイは、カルディアの気遣いが、息も出来なくなるほど切なかった。
(――あぁ、そうか……)
感じてた違和感は、これだった。
魔王を浄化して目を覚ましたカルディアと接していて、ノイは何度か違和感を覚えた。
カルディアはいつも通りに優しい。いや、いつも以上に、優しい。
けれど彼は意図して、そういう姿を保てる。だから気付かなかった。
(知っていたじゃないか……嘘つきだと)
この男は、師匠だったノイに可愛がられるためなら、好かれるためなら、今まで通りの自分を装うことだって、簡単にできるのだ。
おちゃらけてみせるのも、甘えてみせるのも、ノイの望むがまま。
百年を生きたカルディアにとっては容易なこと。
『仕方がありません。俺が貴方を無下に扱うことだけは、ないのですから』
けれど、自分の決めた核の部分は、決して譲らない。
(それほど……お前の中の「お師様」は、大きいのか?)
ノイはきっとカルディアの中で――「お師様」になってしまった。
『本当だって。それに夫婦のルールって言うのは、当人同士で作っていけばいいだけだって、どっかの誰かが本に書いてた。俺とノイの間では、花嫁さんは抱っこするってルールでいいじゃないか』
だからもう、抱っこも必要ない。ノイとカルディアは「夫婦のルール」を作る間柄では、無くなってしまったのだから。
下から覗くカルディアの赤い瞳がそれを決定づけていた。これまでは真正面で向き合えてた目線が、今はノイが見下ろす形となっていた。
ノイの伸ばした手を振りほどくことはないが、カルディアから触れることはない。
こうしてノイが泣いていても、カルディアは慰めるために抱き締めることもない。僅かに離れた位置で、従者のように膝を突いている。
そう。それは紛れもなく、弟子の位置だった。
「お、おま、お前はっ――」
「はい」
何かを言ってやりたかった。何かを聞きたかった。
どうすればこの状況が覆るのか、どうすれば前のようにただの「ノイ」として接してもらえるのか、ノイは必死に考えた。
「……お前は――これから先も、恋はしないのか?」
そして出た言葉は、なんの力も持たない、ただ一番聞きたかっただけの言葉だった。
「ご存知でしょう? 吐いてしまうんですよ。ゲロゲロっと」
ノイを慮ったのか、カルディアが茶化して言う。ノイはそれも、一線を引かれているようで辛かった。
「……触れ合いのことではない。心の事だ」
「俺はそんなもの、しませんよ。必要もありません」
きっぱりと、カルディアが言葉を放った。それは奇しくも、先ほど席次を変えろと言った時と、同じ顔をしていた。
誰に何と言われようとも、変えるつもりのない部分なのだ。
けれど諦めきれず、ノイは震える足で立ちながら、ぎゅっと拳を握った。
「……相手が私でも、か?」
「――勿論です」
カルディアが語気を強くして言う。
ノイはびくりと体を震わせた。
(……びっくり、した)
呆けた頭で、ノイは俯いた。
(心臓が。止まって、しまうかと、思った)
たった、そんな言葉一つで。
これほど胸が痛くなるなんて、ノイは知らなかった。
カルディアは俯いたノイの目を追いかけるように覗き込むと、ひたむきにノイの目を見つめた。
「どうかご安心ください。俺達は一時だけ婚約者でしたが、だからと言って貴方に何かを求めるつもりは毛頭ありません。この気持ちは、恋など些末なものではない。ノイ。貴方は、俺の全てを捧げてもあまりあるお方です」
苦しいほどに痛む胸を押さえ、ノイはそっと目を閉じた。
(……全てを捧げても、恋だけはくれないのだな)
「俺の花嫁さん」――と。何度聞いたかわからない彼の言葉を思い出す。
長くカルディアといる内に、ノイは夢を見ていた。
もしかしたら――自分だけは、他の女性と違うんじゃないかなんて。勘違いしてしまったのだ。
(私の恋なら――受け取ってもらえるんじゃないか、なんて)
自分で言って、また苦しくなる。ギュウと痛む胸を今すぐに取り出せてしまえればいいのに。
ゆっくりと瞼を開いたノイの視界は揺れていた。けれどノイは、恨み言一つ吐かず、カルディアに淡く微笑んだ。
「わかったよ、カルディア。お前に従おう」







