69 : 俺の花嫁さん
「……花嫁だなんて、思ってもないくせに」
悔しくて、恨み言が出た。
なのに、ノイからの反応を引き出せたのが嬉しいのか、カルディアは「これは失礼」と笑う。そしてノイの両頬を両手で包んで、目を合わせた。
「寂しい思いをさせていたとは気付かずに。駄目な夫を許していただきたい」
夫なのか婚約者なのか、あやふやな事ばかり言う男が、ノイの頭頂部にキスをする。そのまま額に降りてきた唇は、こめかみにも降った。
(え?)
額までなら、慣れていた。毎晩の日課だったからだ。
けれど、こめかみから目尻に、瞼の上にと動いていく唇に、ノイは慌てる。
「こ、こら! 何してる!」
「何って。花嫁さん扱い」
「まだ私は十五歳だって、お前、言ってただろ!?」
「俺は百八歳です」
膝の上で暴れるノイに、「それが何か?」とでも言いたげに、カルディアが首を傾げる。ノイの首に両腕を回し、しっかりと逃げられないようにした上で。
(――~~! この男は!)
責任を取る気がないからだ。どうせその内殺す花嫁の機嫌を取るために、ちょっとキスをするぐらい、何てことのないことなのだろう。
(私相手じゃ、気分すら悪くならんようだしな!)
子ども過ぎて色気も何もないからだろう。
機嫌が悪いから文句を言ったと思っているのも、食べ物を与えておけば元気になると思っているのも、何もかもが悔しかった。
「私の機嫌が取りたければ、名前でも呼んでみるんだな」
気付けば、拗ねた口調でそんなことを口にしていた。
――カルディアが意識的に名前を呼ばないようにしていることには、早い内に気付いていた。
けれど、ノイが名乗った名前は「ノイ」だ。自分の師匠と同じ名前を、仮にも花嫁に呼ぶのは気恥ずかしいのだろうと、放っていた。それだけの余裕が、以前のノイにはあった。
しかし、彼を好きだと自覚してからは、「仮初めの花嫁」という役割でしか、彼の中にいられないのだと、何度も再確認させられるのが辛くなっていった。
(言うつもりなんて、無かったのに)
そんなことを気にしているなんて、格好悪いにも程がある。案の定、あまりにも子どもっぽいことを言うノイに、カルディアはぽかんとしている。それがまた、ノイの羞恥を煽った。
ノイはカルディアの腕を振りほどいて立ち上がると、全速力で逃げ出した。
(馬鹿だ。馬鹿なことを言った)
ノイはカルディアの部屋のベッドと壁の間に挟まって、膝を抱えていた。
(恥ずかしい。消えてしまいたい)
カルディアを好きだと気付いてから、そんなことばかり思うようになってしまった。魔力も無くした上、心まで弱くなってしまったら、もうどうしていいのかわからない。
(こんな気持ち、消してしまえればいいのに――)
思い通りにならない胸に手を当て、ぎゅっと押し付けていると、ノイに影が覆い被さる。
「ノイ」
ノイの体がふわりと浮かぶ。
それは、初めてノイが耳にする、カルディアが己の名前を呼ぶ声だった。
「ごめんね。君があんまり可愛いから……いつもつい、俺の花嫁さんなんだって、自慢したくなってたんだ」
百点満点の謝罪だった。だからこそ、本心を隠していることがわかる。
けれど、これで手を打たなければいけないのもわかっていた。
ノイの失態を、自分の失態として謝ってくれている。この好機に縋らなければ、ノイはカルディアに謝ることなんて出来ないだろう。
いつまでも拗ねているのは子どもっぽいし、本当の花嫁でもないのだから、そんな甘えたことをしていい立場でもない。
ノイは口の端を下げると、ぎゅっとカルディアの首にしがみついた。これが、彼女の精一杯だった。
体越しにも伝わってくるほど、カルディアがほっとしたため息を零す。
ノイはぱちくりと瞬きをした。
(本当?)
彼女の背を撫でる大きな手は、いつもよりもずっと慎重だ。
もしかしたら、これすら嘘なのかもしれない。けれど――
(私を、怒らせたかもと……少しは焦ったのか? この、カルディアが?)
抱き上げる腕の優しさが、ノイの疑問を肯定しているように感じた。
『……お師様。怖い』
『それだけじゃないよ。花嫁さん』
『けどね……花嫁さん。君といる内にね、あの時のあの人の気持ちが、少しずつわかるようになってきた』
『……――怖かったと言って、君は信じてくれるの?』
『君を嫌うなんて、太陽が落ちてもあり得ない』
『……それに、女の子は好きかなと思ったんだ』
(……きっと全てが、嘘だったわけじゃない)
これまでのカルディアを思い出す。
たとえ一つ嘘をつかれていたとしても、彼の全てが偽りではないはずだ。
(……なら、いいか)
何故かすとんと、胸に落ちてきた。
ノイはぎゅっと、カルディアに抱きつく力を込めた。その瞬間、あまりにも自然に、笑みがこぼれる。
「――お前は」
「うん」
久しぶりに、柔らかな声がノイから紡がれる。
「星を見上げた時、秋の匂いを嗅いだ時、美味しい物を見つけた時、小指を打ち付けた時、思い出す人間はいるか?」
「何かの、なぞなぞ?」
ノイの声色に喜んでいる、カルディアの弾んだ声が聞こえる。
思いの丈をこの身に閉じ込めるために、ノイは目を瞑った。
(だから私は――お前に、そんな人間が今後の人生で一人でも、現れる事を願うよ)
ノイにとってそれは、カルディアだった。
抱きついていた腕を放し、ノイはカルディアを真正面から見据えた。カルディアはノイがそのまままた離れるのではないかと、不安げな、子どものような顔を浮かべている。
それを見て、ノイはふふっと笑った。
(世界と、お前に――この身をくれてやろう)
小春日和の穏やかな光が、窓から注がれる。
ノイはその日、二度目の死を受け入れた。







