68 : 俺の花嫁さん
『カルディア!』
今はもう、向けられる事も無くなった、小さなタンポポのような笑顔を思い出す。
当たり前にそこにあった日常が、ある日を境に一変した。
笑顔が減った。大きな声で騒ぐことも、とてとてと着いてくることも、目が合うことも、名前を呼ばれることも、少なくなった。
当たり前、と認識していた自分がカルディアは信じられなかった。
彼女はまだここにきて、精々数ヶ月。百年も生きた自分にとって、瞬きのような期間だ。
たったそれだけの期間で、ノイはカルディアが百年かけて培った「当たり前」を塗り替えてしまった。
「何してるの?」
家の中をウロウロとしていたノイの前に、カルディアはひょいと姿を現した。ぎょっとした顔のノイを見たカルディアは、体を翻して屋根から降りる。
カルディアの屋敷は、地上から移設した。その際に、もとの屋敷をこのくらいのサイズでいいや、とまるでパウンドケーキを切るかのように切りとってしまったため、部屋や屋根が中途半端に切断された一角がある。
そこは段差になっていて屋根にも上りやすいため、時折こうして上ることがあった。しかし、家の隅々まで歩き回っていなければ来ない一角なので、ノイはこんな場所があることを知らなかったようだ。
目をまん丸にさせてドキドキしているノイを見て、カルディアはふっと笑った。こんな風にノイが自分に表情を見せてくれるのは、随分と久しぶりに感じる。
「オルニスを捜していたんだ」
しかし、次の瞬間には、最近のノイに戻ってしまった。
感情を押し殺した、人形のような表情をしたノイに。
「何か用事があった?」
失望を上手く笑顔に隠し、カルディアは優しく尋ねた。
「聞きたいことがあって」
「何か知りたいことが? 大抵のことなら答えられるよ」
オルニスはカルディアの使いで地上に降りている。人が変わってしまったかのように元気のないノイのために、領主邸から本を取って来てもらっているのだ。
屋根に上っていたせいで汚れた服を叩きながらそう言えば、ノイはあからさまに気まずそうに口を開く。
「……あ、いや、その……カルディアじゃ駄目なんだ。ごめんな」
その言葉が、深くカルディアの胸を刺した。
自分がこれほど傷ついたことを、ノイに知らしめてやりたい気持ちと、絶対に気付いてほしくない気持ちがない交ぜになる。
カルディアは得意の笑顔で動揺を隠す。
「……この際だから聞いておきたいんだけど、君はオルニスが好きなの?」
「? 好きだぞ」
ノイはなんてことない顔をして答えた。この表情なら、わかる。カルディアに、「大好きだ!」と言っていた頃と、同じ顔をしているからだ。
(……そう。そっか)
腰が抜けそうな程、カルディアはほっとした。押し寄せる脱力感が大きくて、これが安堵なのかすらわからない。
ただ震える心を、目を閉じてやり過ごす。
(……ああ、でも)
もうずっと、ノイの「大好き!」だって、聞いていない。
これから先も永遠に聞けないのだろうかと、考えただけで足がよろめきそうだった。
(――じゃあ、俺のことは?)
以前なら、容易く聞けた言葉。ノイはきっといつもの笑顔で「大好きだ!」と言ってくれたはずだ。
けれど今は、とてもじゃないけれど、聞けない。
(怖い、だなんて)
人に対して、久々に抱いた感情だった。魔法使いはもとより、国王すらも恐れることが無くなったカルディアにとって、そんな感情は久しく縁がないものだった。
「……オルニスばっかり、妬けちゃうな」
カルディアはこれが限界だった。本音を薄めに薄めて、人に見せられる限界まで削った言葉が、これだった。
自分で想像していたよりもずっと弱った声が出てしまったが、ノイ相手なら効果的かもしれないとも、ずるい頭の隅で考える。
(君なら、申し訳なさそうな顔をして、じゃあ一緒に、と。言ってくれるだろう?)
しかし、ノイはカルディアの期待を裏切った。
「すまないな。どうしても二人で話したいんだ」
ノイはカルディアの声の弱さになど気にも留めず、オルニスを捜しに再び家の中を歩き始めた。
カルディアは愕然として、ノイの白く長い髪が切れた壁の向こうへ消えていくのを、見つめることしか出来なかった。
***
ノイは、オルニスを捜すために家の中へ戻った。ドアを開けると、地面がズズズと揺れた。今度は、家の中の物がガタガタと音を立てた揺れたため、気のせいではないとわかる。
(……また揺れた?)
地震ではないなら、なんなのだろうか。今度オルニスに聞いてみようと考えて、それどころではないと頭を振る。
(オルニスには、カルディアのことを何処まで知っているのか、聞かなければ……)
オルニスは、カルディアの腹部が硬くなっていることを知っていた。あれは魔王のせいだろう。
今にして思えば、以前魔力が暴走して寝込んだのもきっと、魔王の魔力のせいに違いない。
それを相談しに行ったククヴァイアの郷の者達も、もしかしたらカルディアの内に潜む魔王のことを、知っているのかもしれない。
(……本当に、私だけ。何にも知らないんだな)
苦く笑って俯いたノイの腕が、ぐいっと引かれる。
驚いて振り返ると、先ほど分かれたカルディアがそこにいた。呼吸が乱れている。慌てて追いかけて来たのだろう。
「どうした? 何か話し忘れたことでもあったか?」
何か用事があったから追いかけて来たのだろうと思ったノイが尋ねるも、カルディアは無言でノイをひょいと抱き上げるだけだった。
抱き上げられたのは、数日ぶりだった。ここしばらくは、抱き上げられそうな空気を感じると、ノイがスッと避けていた。その内、カルディアもノイを慮って無理に抱き上げる事は無くなっていたため、すっかりと油断してしまった。
(ち、近いんだっ……!)
この距離は、近すぎる。ずっと気にしていなかったのが嘘のように、ノイは抱き上げられることに狼狽した。
(顔が近い。心臓が近い。……こんなの、死んでしまう)
彼の嘘と同時に発覚した恋心が、ノイの心をしっちゃかめっちゃかにする。
(……でも、これも、全部。私を器にするためにやってることだ)
膨れ上がった恋心と羞恥心が、一気に萎む。しゅんとするノイの顔を、酷く残念がった表情をしたカルディアが覗き込む。
「……ねえ。どうしたの」
「?」
「最近の君は、俺の知ってる君じゃないみたいだ」
掠れた声には、懇願が滲む。悲愴感の漂うカルディアの顔を見て、ノイは罪悪感に駆られる。
(お前だって、私の知ってるカルディアじゃないじゃないか……)
ノイを抱えたままその場に座り込んだカルディアは、しゅんとする彼女の首の後ろに手を回し、後頭部を押した。カルディアの肩に押し付けられるようにして抱きかかえられ、体全部が密着する。
その姿勢に慣れず、ノイは体に力を入れて、彼の体との間に隙間を作った。
「……あんまり元気がないようだから、地上に行くのは難しいだろうけど……ピクニックはどう? 美味しい食事を用意してもいい。君がしたいことならなんでも叶えるよ」
以前なら心が躍っただろう誘いさえ、今は胸に鉛を詰め込まれたようになる。
(そんなに必死にご機嫌を取らなくったって、出て行ったりしない)
「ね、花嫁さん」
そんな呼び名に、何の意味もなかったのに。
互いに、本気で結婚することはないと知っていて締結した婚約のはずだった。
わかっていたはずなのに、心の何処かできっと期待していた。
(悔しい。悔しい悔しい)
名前すら呼んでくれない男のことを、こんなに好きになってた馬鹿な自分が、一番悔しい。
「……花嫁だなんて、思ってもないくせに」







