63 : 嘘ばっかり
恋しい。
恋しいの。
恋しいのよ。
――もう一時も、待てないの。
***
ズズズ、と足下が揺れたように感じて、ノイは足を止めた。
「ん? 揺れた?」
地震という言葉が頭を過ぎったが、ここは空の上。そんなこと、あり得えない。
「……なんだったんだ?」
首を捻り、辺りを見渡すと、そこには空を渡る獣がいた。
翔翼獅である。
翔翼獅はその知性と希少性から、聖獣に分類される。彼らは人語こそ解さないものの、とても賢く、勇敢で、優しい生き物だった。獅子の背に鷲のように立派な羽が生えた生き物で、人を乗せて空を駆ける。
彼らは人を最良の相棒として選び、人よりもずっと長い生涯を共にしてくれる。
翔翼獅は、ノイにとって見慣れた獣だった。
フェンガローが幼い頃に契約してから、よく見せびらかされていたからだ。
ことある毎に自慢され、背中に乗せてやると恩着せがましく言われていたため、絶対に乗ってやるものかと思っていたノイは結局、一度も乗ったことがない。
空をすいーっと楽しそうに泳いでいた翔翼獅が、浮島に着地した。その背には、一人の人間が乗っている。
ぽけっとしたまま突っ立っているノイのもとに、タッタッタッっと翔翼獅が走り寄って来た。
「こらっ、ルクセ! どうした!」
(ルクセ!)
ノイはバッと両手を開いた。
その瞬間、翔翼獅――ルクセは四本の足で地を蹴る。
「ぐわっ」
「うわっ、ははっ!」
ルクセの上に乗っていた男――パンセリノスは地面に落ち、ノイはルクセに押し倒されていた。
大きな長い舌でべろべろとノイの頬を舐めるルクセは、フェンガローと契約していた翔翼獅だ。彼はノイのことを、子どもの頃から知っている。懐かしい顔を見つけ、主人を乗せている事も忘れて駆けてきたのだろう。
「いい子いい子、ルクセ! 落ち着け!」
「こら、ルクセ! 噛むな、噛むなよ! 離れなさい!」
地面に押し倒されていたノイに驚き、パンセリノスのが慌ててルクセの手綱を引く。
ルクセは命令で我に返ったのか、しょんぼりとした顔をして、決まり悪そうにパンセリノスの腰に顔を寄せる。
「すまなかった。カルディアの花嫁よ。普段はこんなことは全くないんだが――……」
パンセリノスは困惑顔でルクセとノイを見比べた。ノイは笑顔で首を横に振る。
「いいんだ。挨拶してくれただけだ。とても嬉しかったから、怒らないでやってくれ」
そうは言うが、という顔をして、パンセリノスはルクセを見下ろした。ルクセは項垂れ、その場に伏せた。「もうしない」という表明なのだろう。
ため息をついたパンセリノスは、ルクセの背をぽんぽんと叩くと、ノイに向き直った。
「せわしい訪問となってしまったが、招いてはもらえないだろうか?」
パンセリノス――エスリア王国で五十年国王の座に君臨する男が、ハリのある声でノイに言った。
――カポポ……
オルニスが持つティーポットから、かぐわしい香りの茶が注がれる。こんなにいい匂いの茶は、カルディア用にも出てこない。きっとこの家にある、一番高い茶なのだろう。
ノイはリビングのソファーに座り、肩を縮こまらせていた。
「……あの、カルディアは、今日は霊廟で――」
ここ最近は霊廟へ行くことも少なくなっていたのだが、今日は朝から籠もっていた。
なんというタイミングの悪さだ。おずおずと告げるノイに、パンセリノスは顎を引いて頷く。
「知っておる。だからこそやって来たのだから」
目の前に座るパンセリノスに一つ、ノイに一つ、オルニスによって二杯の茶が注がれる。
ノイは縋る思いで、勢いよくオルニスを見た。
しかし彼は涼しい顔でティーポットを持って台所へと引っ込んでいく。
ノイの懇願空しく、リビングには国王と見習い花嫁がたった二人きりで残された。
ノイは国一番の魔法使いだったが、国王と呼ばれる人間にでかい顔が出来るほど、肝が据わっているわけではない。
椅子に座ると、ノイの足は空中に浮く。両足を揃え、ノイはティーカップに手を伸ばした。
しかし、ティーカップの正しい持ち方がわからない。
大昔、祖父に弟子入りする前にばあやがアアジャコウジャウンタラカンタラと言っていた気がしたが、今は何一つ思い出せる気がしなかった。
ティーカップの手前で両手を止め、目をぐるぐると回すノイを見て、パンセリノスは優雅にカップを持ち、穏やかな声で言った。
「自由に飲みなさい。カップが重いなら、両手で持ってもいい」
「あ、りがとう、ございます」
ノイはお言葉に甘え、両手でカップを持って一口飲んだ。あまりの緊張に落としてしまいそうだった。渇いていた口が、少しばかり潤う。
「そなたに話があってきた」
茶を飲み、ノイが一息ついたのを見計らったかのように、パンセリノスが口を開いた。
「カルディア様が戻られるまでに済ませておきたいため、手短に話す」
ノイは知らず、背筋を伸ばす。
「ここから逃げなさい」
ぽかんと、ノイは口を開いた。
「行く当てないなら、私が庇護しよう。何処か遠く――カルディア様の手が届かない場所まで連れて行く」
何故、ここから逃げるという話になるのかわからず、ノイは緩く首を傾げた。
「いかに願ってもない器とはいえ、カルディア様は焦りすぎておられる。数年も経てば、落ち着かれるはずだ。あの方にもそなたにも、時間はまだたっぷりとある。そなたはカルディア様にとって、いつか必ず、換えの利かぬ――かけがえのない者になる。私にはわかる。だからこそ、ここで亡くすのは、惜しい」
何の話をしているのか、ノイにはわからなかった。
ただ、口から掠れた声が漏れる。
「……亡くす、とは?」
パンセリノスは渋面を浮かべると、酷く重苦しい声を出した。
「カルディア様は、そなたを」
――殺そうとしている。







