62 : つつ闇の宿願
日が届く角度まで計算された、静謐な霊廟。
その一角で、男が喉を震わせて笑う。
「ああ、これで……」
念願叶った男の目は、夢を見ているかのような、愛しい人を見つめるかのような、恍惚とした光を称えていた。
自らが紙に書き記した魔法陣をそっと指先でなぞると、男はゆっくりと細い息を吐く。
「これで……――ようやく、殺せる」
甘美な言の葉は、森が揺れる音にかき消された。
***
朝食を終えたノイが、「行ってきます」と言って戸口から出て行こうとする。
オルニスの入れた甘い茶を飲んでいたカルディアは、カップを置いて彼女を追いかけた。
「何処へ行くの?」
「畑だ」
先を歩いていたノイを、後ろから近付いてきたカルディアがひょいと抱えて歩く。
「知っているか? 私、実は歩けるんだ」
家から徒歩数歩の畑を指さし、ノイが言うと、カルディアはにこりと笑った。
「勿論知っていたよ。じゃあ、これは知ってたかな? 俺はね、可愛い花嫁さんのお手伝いがしたくて仕方がないんだ」
「全く。調子のいい奴め」
先日の喧嘩以来――カルディアはノイをかまい倒していた。
優しくしたい。甘やかしたい。その気持ちが常にカルディアを埋め尽くし、ノイを見つければ近づき、ノイが歩けば抱き上げている。しまいには、ノイが食べる食事の粗熱まで取ろうとするので、ノイに「そこまではしなくていい」と拒否される始末だった。
数十年をかけて完成させた師匠の研究していた魔法陣――転移魔法。
その転移魔法を基に改良した魔法陣がついに完成した。
――それはつまり、カルディアがノイを見た時から考えていた計画を、ついに実現できるという事を意味していた。
だが、カルディアはすぐには実行しなかった。
怖じ気づいたわけじゃない。
ただもし――自分がこのまま計画を進めてしまえば、彼女が泣くことは、明白だった。
(今更かな。手前勝手に利用すると決めたくせに、君が泣くのを見たくないなんて……)
これまでにカルディアは何度か、ノイを泣かせた。その度に、胸が絞り尽くされるような、途方もない気持ちに駆られる。
(だから、うんと君に優しくするから)
計画を実行しないのは、ノイのため。
利用させてもらう彼女には、優しくしてあげると決めていたから。そう、何度も自分に言い聞かせる。
「こんな俺は嫌い?」
「まさか。大好きだ」
ノイが腕の中でにこりと笑う。太陽よりも眩しい笑顔に、カルディアは目を細めた。
(目的を見失いはしない)
この日をずっと――百年も待ち望んでいたのだから。
けれど、もう少し――ほんの少しだけ。その言葉を、カルディアは心の中で何度も呟いた。
「今は何をしてるの?」
「次の春のために、腐葉土を作ってみてるんだ」
ノイはゆっくりと歩くカルディアの袖を引っ張ると、畑の奥を指さした。そこにはこんもりと盛られた落ち葉が、木の板でいくつかに区切られている。
「ここには木の葉を多めにして、こっちは木の葉の量は他と同じだが、水の量を増やしている。その隣は、生ゴミの量を増やしていて――」
カルディアが畑に興味を持ったのが嬉しいのか、にこにことノイが答える。
その様子を見るだけで、カルディアは何かわからない感情を胸に押し込まれたようになり、息が吸いにくくなる。呼吸の代わりになどなるはずもないのに、目が離せなくて、楽しそうに話すノイをじっと見つめる。
カルディアを見たノイが一瞬言葉に詰まり、ぱく、と口を開いて閉じた。その頬は僅かに赤らんでいる。
その赤みが可愛くて、カルディアはノイの頬を指の背で撫でた。
「……森から一人で運んできたの? よく頑張ったね」
まごまごとしていたノイだったが、畑の話に戻ったからか、ぴょんとカルディアから飛び降りて、目を輝かせて両手を広げる。
「いや! オルニスにも手伝ってもらったんだ!」
今までとろけんばかりの笑みを浮かべていたカルディアは、笑顔のまま「ん?」と固まった。
「腐葉土の本もオルニスがな、貸してくれたんだ」
カルディアは笑顔で固まったままだ。
「あの子は凄いな。屋根裏部屋に、様々なジャンルの本を並べていた。きっと立派な魔法使いになる!」
カルディアは笑顔のまま――ノイの頬をにょいーっんと摘まんで伸ばした。
「……ふお?」
「腐葉土の本くらい、俺だって貸してあげられたけど?」
「ふぇえ?」
「俺も立派な魔法使いだけど??」
「ふぁるふぇあ??」
「なんで俺じゃないでオルニスに借りるの?」
「ふぉまえふぁいなふぁっふぁんふぁろう??」
カルディアはようやくノイの頬を離した。ノイの頬は赤くなっていた。柔らかな頬を小さな手で押さえ、ノイが「痛い……」と泣いている。
「大体――」
カルディアは尚も言い募ろうとしたものの、言葉を止めた。
『愛しいお前の私が、こんなに頼んでいるのにか!?』
あの言葉の真相を、カルディアはまだノイから聞いていない。
とにかく二人きりにはしておけないと、ククヴァイアに聖獣まで借りて浮島に戻ったはいいものの、これからどうすればいいかなんて、カルディアには全くわからなかった。
「……君は……」
その続きが、カルディアの口から溢れることは無かった。
しかし代わりに、ノイの指先に自分の指先を絡めた。
驚くノイに気付かない振りをして、そのまま隣に立つ。
朝の風に草木が揺れる。そろそろ、秋になろうとする涼しい風だった。
***
(……なんなんだこれは)
ノイは自分の手を見られずに、顔を逸らした。
唇を引き締めて、全意識を手に集中させないように、集中することに必死だった。
指先が、じんと痺れる。
繋いでいるとは言い難い。
けれど、繋いでいないとも言い難い。
触れ合った指先は絡められているものの、ほんの少し動くだけで解けてしまうだろう。くっついたままなのは、どちらも離れないようにしているからに、他ならない。
(さっきだって、そうだ。なんか、なんかカルディアが変なんだ……)
カルディアはすごく、変な顔をするようになった。優しいとか、柔らかいとか、そう言う言葉には当てはまらない気がした。
(言うなら――甘い、とか)
こちらを溶かしそうなほど甘い瞳で、じっとノイを見つめる時がある。そんな時ノイは、声の出し方すら忘れてしまう。胸がきゅっとなって、考えていたことが全て飛び散ってしまうような、そんな心地にされる。
今も、ろくに顔も見られなかった。振り解けるほどの強さの指を絡めたまま、何をすることも出来ずに突っ立っている。
決断は委ねられていた。
(目眩がしそう)
足がふらつく。秋の穏やかな風を感じながら、ノイはただじっと地面を睨み付けていた。







