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60 : 狭いベッドと可愛い君

 しかしその夜――さっさとご飯を食べて、せっせと寝間着に着替えたノイは首を傾げた。

 待てど暮らせど、カルディアが部屋に帰ってこないのだ。


「オルニス! カルディアは?」

「またそんな格好で――先生? まだククヴァイア様の郷でしょうよ」


 言いつけられた仕事を死ぬ気で終えたオルニスは、屋根裏の自室に籠もり、魔法関連の本を読んでいた。

 彼は何を当たり前なことを、とでも言うようにノイを見る。

 本の山に埋もれるオルニスに、ノイはぽかんと口を開いた。


「――っえ、まさか知らなかったんですか?」


 知らなかった。ククヴァイアのつむぎの郷にカルディアがいることも、ノイにだけ知らされていなかったことも、どちらも。


 ノイは立ちくらみがしてその場にへたり込んだ。地面に両手を突き、項垂れる。動揺を隠せない。


「……そんなに、怒ってたのか?」

「いや、貴方に怒って出て行ったわけじゃ――単なる定期健診ですよ。この間倒れたのをきっかけに、これまでサボってたのを再開されただけです」


 だとしても、それをノイに伝えなかったのはきっとわざとだろう。もしくは――以前のデートの時と同じく、忘れられていたか。


 ノイにとってカルディアという存在は、とても大きい。


 子どもの頃から知っているから――というのもあるが、それ以上の存在となっているのも、また確かだった。


 けれどカルディアにとってノイはまだ、きっとそうではない。


 毎晩一緒に眠っても、歩くとき当たり前に抱きかかえられても、話す時に目線を合わそうとしてくれても――特別と呼べる愛を捧げられていると錯覚するほどに優しくとも――彼にとってはまだ、通過点の一つなのだろうか。


 重苦しいため息が落ちる。


(……今夜。カルディアはちゃんと、眠れるだろうか)


 ククヴァイアのつむぎの郷では、カルディアを狙う大波小波があれよあれよと押し寄せてくる。前回はノイが防波堤になってやれたが、今回はいない。


「移動もありますからね。早くとも、帰りは明日の夜なんじゃないですか?」


 落ち込むノイにオルニスが言う。

 ノイはこくんと頷くと、カルディアの部屋に一人帰って行った。




***




「よもや、きちんとお越しいただけるとは思うてもおりませんでした」


 皺が濃く刻まれた顔を柔らかく崩して、紅を引いたククヴァイアがカルディアを招き入れる。

 応対も無く、仏頂面のまま屋敷へと入るカルディアを見て、ククヴァイアは目を丸くした。


「おやまあ、珍しいお顔ですこと」

「腹の具合を見るんだろう。全く、誰が見ても、何をやっても、変わらないと言うのに」


 ククヴァイアの私室に通されたカルディアは、乱暴に服を脱いだ。いつもぴったりとした下衣(したぎ)で隠している肌が露わになる。


 透き通るような白い肌に、健康的な体つき。誰もがほうとため息をつきたくなるような体は、しかし部分的に黒く変色していた。

 それは酷く禍々しく、悍ましくもあった。黒い蛹の殻のようなそれは、叩いても、そぎ落とそうとしてもびくともしない。


 カルディアの肌が蛹化し始めたのは、彼が八才の頃――ノイが魔王と対決して、この世から消えた時だった。

 魔王化した名残だろうと、ボロボロになった幼いカルディアを介抱したフェンガローは判断した。


 その時のフェンガローとカルディアは、ただ皮膚が黒くなった――それだけだと考えていた。だから、人に見せたくはないものの、これがあるせいで何かが変わるなどと、考えた事は無かった。


 しかし、その考えをおよそ六十年前、改めなくてはならなくなった。


 ――その時のカルディアは、五十に手が届きそうな年だった。ずっと「若くていいですね」と周りに言われていたカルディアの見た目が本当にいつまでも変わらないことに、周囲を含め、自分自身も恐ろしく感じ始めていた頃の出来事だった。


 そんな折り、カルディアは激しい怪我を負った。

 その際に、傷口が黒く変色したのだ。


 最初は指の爪程度だったへその下にのみあった黒い皮膚が、カルディアが傷を負った鳩尾まで、広範囲に広がった。


 最初に気付いたのは、当時のカルディアの弟子、フェンガローの娘であるククヴァイアだった。パンセリノスにとっては、伯母に当たる。


 看病に当たったククヴァイアは、カルディアの体を見て戦いた。何か、とんでもないことが起きているのは、人目見ただけで明らかだったからだ。


 ククヴァイアは、治療法も解決法もないカルディアの体を、それからずっと検めている。


 何を飲んでも何を塗っても、この六十年進歩は無い。

 ただカルディアの黒い皮膚は、徐々に大きくなっている。


 そうして、否が応でも意識しなくてはならなくなった。


 己が、人では無かったことを――


「オルニスに薬を持たせたのはツェーラ、君だろう。すぐに止めさせるように。あんな辛気くさい顔で隣に立たれていたら、飯がまずくなる」


 カルディアは嫌気が差した顔でそう言った。


 彼は、オルニスが健康のためにと進め始めた茶に、薬が入っていることに気付いていた。

 何をしても進行を止めることは無理だと言っているのに、ククヴァイアの息がかかったオルニスは、ツェーラ――母親からの命令を無視できずに、カルディアに薬を盛ったのだ。


「ご随意に」

 カルディアをもてなすため、茶を注いでやってきたツェーラが神妙に頭を下げる。


「あらあら。今日はそれで、腹を立ててお出でで?」

 柔らかな指先で、ククヴァイアがカルディアの腹を触る。


 ククヴァイアがいつも通りに温度を測り、黒い皮膚の色の濃さを確かめ、蛹化した範囲を定規で測り、塗り薬を塗り終えると、カルディアは無言でバッと服を着た。


 しかし、その後も何を話すでも、何処へ行くでもなく、椅子の肘掛けに肘をついて、むすっとした顔を浮かべている。


 ククヴァイアは手振りでツェーラを下がらせた。

 この部屋には、ククヴァイアとカルディアの二人だけとなる。その状態での無言が五分は過ぎた頃――カルディアがようやく重い口を開いた。


「――若い娘のことがわからない」


 ククヴァイアはゆっくりと息を吸った。そして、優しく微笑む。


「そうですか」


「俺に大好きだ大好きだって言いながら、他の男と二人っきりで出かけたがるのは、どういう了見だと思う?」

 ククヴァイアの相槌を待っていたかのように、カルディアはソファーから身を乗り出して、早口でまくし立てた。


「まあ……他の男性と?」

 彼女の声の響きに、女性同士の嫌悪を感じ、カルディアは慌てて言いつくろう。


「違う。勘違いしないでくれ。あの子が俺に大好きと言っているのは恋愛感情じゃない。だから気が多い子、ってわけじゃ――」

「あら……」

 一転して悲愴に満ちたククヴァイアを見て、カルディアは言葉を止めた。


「――え? と言うことは……」


 ノイがカルディアに恋愛感情を抱いていないのなら、何の問題もない。二人で出かけたがっていたノイは、ただ単純にオルニスに恋愛感情を抱いているだけとなる。


 思えば二人は、年も近く、立場も似たようなものだ。畑作りだって二人でやっている。度々いなくなるカルディアが、まるで気でも利かせたようだ。

 二人の仲が深まっても何の不思議はない。


 ――何しろ、彼らは若い。未来のある若者だ。


 そんな彼らは今、浮島で二人きり。


 カルディアは立ち上がった。


「……帰る」

「あらあらあら」


 見送りのために立ち上がろうとするククヴァイアの足下に跪き、カルディアは彼女の指先に唇を落とした。


「クク、慌ただしい滞在となり、ごめんよ。それから、サフィーを借りるね」

「こんな時ばかり、昔のように呼ぶんですから。ええ。どうぞ、乗ってお行きになって」


 カルディアはククヴァイアの言葉を最後まで聞かずに、びゅんと彼女の部屋を飛び出した。サフィーとはククヴァイアが所有している翔翼獅(ゼピュライ)の名前である。

 部屋の外で待機していたツェーラは、唖然としてカルディアを見た後に、追いかける。

 使用人に彼の帰り支度をさせるのは、この郷を実質切り盛りしているツェーラの仕事だった。


 ククヴァイアはゆっくりと立ち上がり、部屋の外に出た。廊下を走って行ったカルディアを思い出し、くすくすと笑う。


「あの先生が走るなんて……」

 ククヴァイアが廊下に姿を現すと、控えていた側仕えの者達が近付いてくる。いつもなら支えられたククヴァイアだったが、今日は手を広げて押し止めた。

 自分の両足で、立っていたい気分だったのだ。


「カルディア様がいらしてたって本当ですの!?」

 バタバタとアイドニが廊下を走ってやってくる。ククヴァイアは曾孫のお転婆を手のひら一つで止めると、ふふっと笑った。


「先生の、あんな姿が見られるなんて……長生きはするものねえ」

 カルディアを呼ぶツェーラの叫び声が、郷の入り口から微かに聞こえる。

 ククヴァイアはおかしくて、そして嬉しくて、いつまでもずっとそこに立っていた。





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イメージイラストはくろこだわに様に描いて頂きました。
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