58 : 狭いベッドと可愛い君
急変したオルニスに驚き、ノイは慌てて答える。
「偶然、触れたんだ。手が」
「見たのか?」
「見てはいない」
ノイが首をブンブンと横に振ると、オルニスは顎に手を当てて黙り込んだ。嫌な沈黙が続く。
オルニスは台所に差す微かな太陽光を浴びて、美しい顔を険しく歪ませていた。そして少しの間考えると、つり目がちな目を冷たく光らせ、ノイを見る。
「忘れろ」
「忘れろ、ったって……」
「先生は元々、あのお体だった。だが、我々に知られることを好まれない。知らぬ振りを通せ、と言ってるんだ」
厳しい口調で、オルニスが年長者としての意見を告げる。
(……元々、だって?)
ノイはカルディアを育てていたことがある。言うまでもなく、幼いカルディアの皮膚は固まっていなかった。
やはりあの硬い皮膚は、ぴったりとした黒い服の下に意図的に隠されていたのだ。
「あれは自然になったものではない。誰かが、手を尽くさねばならない類いのものだ」
「尚更、貴方に出来ることはないでしょう」
話している間に落ち着きを取り戻したのか、オルニスが静かに言う。
しかし、ノイは首を縦に振らなかった。
「無理かどうかは、私が決める」
ノイは一言一言区切りながら、ハッキリとオルニスに告げた。
いつにない力強いノイの目力に、オルニスは一瞬息を呑む。
「そのためには、領主邸へ行きたい。内緒で連れ出してくれないか」
カルディアに頼んでも、絶対に許してくれないだろうという確信があった。それに、先ほどのオルニスの話では、ノイが気付いたことにも気付かせてはならないようだ。
「無理です。僕には権限がありません」
「頼む!」
「無理かどうかは、僕が決めるんで」
先ほどノイが言った台詞で、けんもほろろにオルニスが断る。
ショックを受けたノイは、必死に縋り付いた。
「頼むオルニス! どうしてもお前と二人で出かけたいんだ!」
「嫌です」
「愛しいお前の私が、こんなに頼んでいるのにか!?」
「嫌です」
全く、取り付く島もない。
ノイは涙に暮れた。
「オルニス! オルニス!」
「ああもうっ、あんたが騒いでるから、パンがちょっと焦げちゃったじゃないですか! あっち行っててください」
「オルニス、頼むぅ! 大好きなオルニス。格好いいオルニスゥ……」
「だーっ、邪魔ですね! ふざけてると、火傷しますよあんた!」
長いヘラをかまどに突っ込み、パンを取り出そうとしているオルニスが叫ぶ。大好きなパンと、無愛想なオルニスに挟まれて、ノイの泣く声が台所に響き渡った。
***
「頼むオルニス! どうしてもお前と二人で出かけたいんだ!」
(……は?)
その声を聞いた瞬間、ぴたりとカルディアの足は止まっていた。
森の奥――師匠ノイ・ガレネーの霊廟で、現在手を付けている魔法陣の調整に勤しんでいたカルディアは、昼飯を食べ損なっていたことに気付いた。
一日三食食べなくても気にしていなかったカルディアだったが、ノイが現れてからは、毎食彼女が所望するため、自然と付き合って食べるようになっていた。
そのためか、二時を過ぎた頃には空腹で集中出来なくなり、こうして家に戻って来たのだ。
おやつの時間にはまだ早いため、ノイと顔を合わせる事もないだろうと考えてのことだった。
――そう、カルディアは今、ノイを避けている。
ノイといると、カルディアは調子が狂う。
誰かのために自分の主義を変えてもいいと思ったのは、随分と久しぶりのことだった。
フェンガローの息子である先王フォティーゾを殴った時、面倒なことばかり起きる王都にはもう帰らないと決めたはずなのに、ノイが喜ぶかもしれないと考えたその日の内には、ククヴァイアに連絡を取っていた。
そんなノイが――街も寝静まる闇の中、二人しかいない王都の寝台の上で「好き」と言ってきた時、カルディアの心臓は跳ねた。
あの夜、カルディアは数十年ぶりに眠れなかった。
そんなことはもう随分と久しぶりのことで、隣ですぴすぴと眠る存在が疎ましくて仕方が無かった。
けれどその寝顔にさえ、心に沸き立つ何かを感じて。
それを人がどんな風に呼びたがる感情かということには、必死に目を逸らした。
朝起きて一番に昨夜の言葉を確認すれば、なんてことはない。ただの、芋にも、雲にも、湖にも、全世界の全ての彼女のお気に入りに捧げる言葉――「大好き」なだけだった。
それに安堵よりも落胆が勝り、落胆した自分に動揺した。
そして自分が昨夜、眠れないほどに喜んでしまっていたのだと、気付いた。
そんなことは、到底許されない。許したくない事だった。
それからも続く彼女の「大好き」に馬鹿みたいに反応して、無理に子ども扱いをした。ノイが不服に思っているのはわかっていたが、そうしなければ、心の動揺を抑えられなかった。
あってはならないことが起きる前に、カルディアはノイから距離を置いた。
浮島に帰ってからは、丁度いいとばかりに魔法陣の調整に勤しんだ。そうしてノイと離れていれば、心の安寧が訪れるはずと、そう思っていたのに。
「愛しいお前の私が、こんなに頼んでいるのにか!?」
思わずよろめき、よろめいた自分に驚いた。
(……あの子は、何を言ってる? 愛しい? 私が? こんなに? ……オルニスに??)
唖然としたカルディアは、気付けばまた霊廟に戻っていた。手が震えて、ずっと頭の中にノイの言葉が反響していて、その後は魔法陣の調整どころではなかった。
食べたかったはずの昼食も食べず、焼きたてのパンの香りだけ嗅いだ腹が、ぐるると鳴る。
けれど今深刻なのは、腹ではなく、心臓だった。
ツキンと痛む心臓に、カルディアはただただ呆然としていた。







