57 : 狭いベッドと可愛い君
――エスリア王国暦 482年 仲秋
まだ夜の闇が明け切っていない頃。ノイがふと目を覚ます。
体が重かった。その原因はわかりきっている。
「もうっ――……」
ノイはぐいっと、背後から巻き付いてくる体を押しやった。
それがどれほど大切な弟子であれ、婚約者殿であれ、寝起きは人類皆機嫌が悪いものである。
彼女を抱き締めていた大きな体は、一瞬だけノイを解放したが、またすぐに腕を巻き付けてくる。
「狭いっ!」
最近、カルディアはノイを抱き締めて眠る。
起きた時にはいつも通りの顔をしているため、カルディアに抱き締めている自覚はないらしい。
(あんなにしおらしく女が苦手だと泣いていたくせに……)
泣いてはいなかったが、ノイの中では泣いていることになっていた。
ノイははっきりと、機嫌が悪かった。彼が安らかに抱き締めているということは、カルディアがノイをただただ子ども扱いしているのと同義だったからだ。
諦めて目を瞑るノイを、カルディアがぎゅうと抱き寄せた。窮屈な体勢に、もう一度押し戻そうとしたノイだったが――腰に当たる違和感にピタリと動きを止める。
不審に思ったノイは、そっとカルディアの腹に手を這わせた。
そして、息を呑む。
それからノイは、まんじりともせず夜を明かした。
***
ノイはしゃがんで、土を見つめていた。
その服は泥や落ち葉にまみれ、指にこびりついた土は既にカサカサに乾いている。
「じっと見つめてても、芽はそんなすぐ出てきやしませんよ」
立てたクワに顎を突いたオルニスが、呆れ半分でノイに言うも、ノイは彼の声も聞こえていなかった。
ノイ・ガレネー、十五才(心は二十六才)
人生で初めて、野菜を育てている。
王都でのあれやこれやそれやこれが終わり、アイドニをククヴァイアのつむぎの郷へ帰しておよそひと月――ノイは浮島で暮らしていた。
舞踏会から帰って来て以来、カルディアは前にも増して日中姿を消すことが増えた。オルニスは頑なに居場所を言わなかったが、きっと霊廟にいるのだろう。
カルディアがいなければ、ノイはまた暇な日々に逆戻りである。あれから駄々をこねまくって一度だけ領主邸に本を借りに連れて行ってもらったが、それももう読み終えてしまった。また暇を持て余しているノイに、カルディアは苦し紛れの暇つぶしに、畑作りを提言したのである。
ノイはヤル気になった。暇も潰れて、しかも食べ物も育つなんて、なんて素晴らしいことだとカルディアの発案を労いもした。
とは言えノイは根っからのお嬢様である。流石に野菜が土に植わっていることは知っているが、どう種を撒き、どう育てるのかは、からっきしだ。
そこで、ノイはオルニスの腰にひっついた。
オルニスは日がな一日――カルディアの世話や、家の仕事や、自身の魔法の練習にと――忙しそうにしているため、かなり目に渋られたが、ノイのしつこさの方が勝った。
腰にノイを引っ付けたままでは何も出来ないと悟ったのか、こうして現在、畑作りを手伝ってくれている。
「土を掘り起こし、耕す魔法なんて、よく知ってましたね」
ノイはドキリと体を揺らした。
畑を耕す際、ノイは自分の考えた魔法陣を紙に描いて見せた。それを見たオルニスが、魔法の練習にもなるならと手伝ってくれたのだ。
魔法陣はノイ自身が考えたものだが、本に描いてあったと説明した。オルニスは特に疑問にも思わなかったようだ。
当然だ。魔法使いに弟子入りもしていない――更には、魔力ナシの娘が、魔法陣を一人で開発出来るだなんて、誰も、夢にも思わない。
「……貴方に魔力があれば、きっと素晴らしい魔法使いになったでしょうに」
残念ですね、と言い残して、オルニスは家の方へ歩いて行った。
その背を見つめながら、ノイは本当に自分が「残念」なのか考えていた。
ノイは現状を量りかねているのだ。手から溢れていったものは確かに多い。
けれど、同じほど、何かを掴めている気もしていた。
(……この私にならなければ、今のカルディアの側には、来られなかっただろうしな)
常に孤独の隣に座っているようなカルディア。大人だったノイはきっと、百年後の彼の側に居続けることはできなかった。
『――皆……百近く年下だからね。何をされたって、可愛いよ』
カルディアは百年生きていることをノイに白状した。
ポロリと零してしまっただけで、本人は覚えていないかもしれない。けれどノイは、その時感じた胸の痛みと共に、ずっと覚えていた。
(……なあ。お前はどうして、そんなに長いこと生きているんだ?)
どうせ、聞いても答えてはくれないとわかっている。のらりくらりと躱されるか、嘘の情報を流されるかのどちらかだろう。
けれど明け方、カルディアの秘密に触れたノイは、嫌な胸騒ぎを感じていた。
(……カルディアの腹が、硬くなっていた)
触った範囲的に、へその周りからみぞおちのすぐ下の辺りまで、およそ人の肌とは思えないほどに硬化している。
不老と硬化した腹。
この二つが無関係だとは、考えにくかった。
魔力は人に干渉できない。そのため、魔法によるものではないと思われた。だが、魔法でもなければあんな風に――まるで、蛹の殻のように硬くなる事が起こりえるのだろうか?
(調べるためにも、領主邸へ行きたいんだがな……)
この間書庫へ行った際、カルディア自身も何か調べた痕跡はないか、書棚を一つ一つ見て回っていたのだが、何しろ所蔵数が膨大なため、最後まで見て回れなかったのだ。
最近のカルディアは日中のほとんどを家の外で過ごす。
となれば、隙を突くことは可能だろう。
「……どうにか、調べたいな」
ノイの呟きは、ふかふかの畑の土に溶けて消えた。
なんにせよ、浮島は狭すぎる。
何かを成すには、共犯者が必要と思えた。
その場合、選択肢は限られている。
「オルニス、話がある」
完全な消去法でターゲットとなったオルニスは、げんなりとした顔をノイに向けた。
「今、何をしてるかわかりますか? 貴方の! おやつのために! パンを焼いてんですよ、僕は!」
「パン!」
まさに今、台所の釜にもにもにのパンを詰め込もうとしていたオルニスは、ノイに向かって叫ぶ。
パンを目に入れてしまったノイは、顔を輝かせてオルニスの周りをうろちょろとする。
「人使いが荒いところまで先生に似ないでもらえますかね。全く、なんで僕があんたのおやつのためにパンまで焼いてやらなきゃ……」
「オルニス、これは!?」
「ああっ! もう、触るんじゃない! それはあとでパンに塗って食べるジャムですよ! しっしっ!」
口ではとやかく言いつつも、オルニスはノイに親切だった。何しろ、カルディアに命令されているとは言え、ノイのためにおやつを焼いてくれる上に、パンを美味しく食べるためのジャムまで煮詰めてくれている。
オルニスの面倒見の良さは、きっとつむぎの郷で育まれたのだろう。彼もアイドニも、年下に対する接し方に慣れていた。
「僕は火加減を見てるんで、もう何も手伝えませんよ」
「話があると言っただけだろう」
「じゃあ、何か手伝ってほしい、っていう話以外を聞けるってことですね?」
腕を組んで足をトントンと鳴らすオルニスに、ノイはにこっと笑った。
「すまない! 手伝ってほしい部類の話かもしれん!」
「そうだろうなと思っていましたとも!」
オルニスもにっこりと笑うと、彼はノイの背を押し始めた。どうやら台所から追い出す気でいるらしい。
「オルニス! ちょっとだけ! 本当に大事な話なんだ!」
「あんたの言う手伝ってほしいことと言えば、おやつの量を増やしてほしいか、暇を潰す遊び相手になってほしいか――」
「違う! カルディアに関することだ!」
ダイニングに通じる台所のドア枠を持って必死に追い出されまいと粘っていたノイの叫びを聞いて、オルニスは眉を上げる。
「先生に関する? 何です?」
ようやく背を押すのを止めたオルニスに向き直ると、ノイは小声で尋ねた。
「お前は、知っているか? カルディアの体のこと」
「……先生の体?」
オルニスが訝しげな顔をしてノイを見下ろす。
「だから……カルディアの――腹の、皮膚ことだ」
ノイが小声で言うと、オルニスはカッと目を見開いた。そしてノイを台所に引っ張り込み、隅へ追いやる。
「何処で見た」
オルニスの声は、研ぎ澄ました刃のように鋭かった。







