55 : 春よ来い
「――失礼。我が妻に対する礼儀は守っていただこうか」
声の主に、ひょいと抱き上げられる。いつもの抱き心地に、顔を見ずとも誰だかわかった。
「ヒュエトス!?」
「……いやそれよりも、つ、妻?」
男達が目を丸くしてカルディアを見る。その視線は、どんどんと異常者を見るものへと変わっていく。
「見てよ、花嫁さん。皆さぁ、失礼だと思わない?」
カルディアが指し示す先は、男達だけでは無かった。あちらでカルディアを取り囲んでいた女性陣さえも、奇妙な者を見る目でカルディアを見ている。
「それは失礼した……よほどの大国の姫君なのか?」
政略結婚であれば、考えられなくもないと思い至った男の発言で、周りは「ああ」「なるほど」と相槌を打つ。
「はは、そうかもね。まあ、君が姫君でも、何処の誰でも。俺には関係のないことだけど」
カルディアはまるで周囲に見せつけるように、ノイの額にキスをした。唇を離した後も、まるで恋する少年のように頬を染めて、ノイを見ている。
その行動が、ノイの心をかき乱した。
ノイは無言で皿の上のチーズを手に取ると、ズボッっとカルディアの口に入れた。
カルディアは呆気に取られた様子だったが、ノイの気迫に一言も発せず、もぐ、とチーズを噛み始める。
もぐもぐもぐ……と静かに咀嚼していたカルディアが、口の中のものを嚥下したタイミングを見計らうと、ノイは彼の口に今度はオリーブのピクルスを突っ込んだ。これまた、カルディアは大人しく食べている。
もぐもぐもぐ。
大の大人が、少女に睨まれながら餌付けされる様を、誰もが黙って見守る異様な空間が広がっていた。
また飲み込んだカルディアを見て、次はチキンをむんずと掴んだノイの手を制し、彼は冷や汗をたらりと流して尋ねた。
「……もしかしてだけど、君。何か、怒ってる?」
「……怒る? 私が? なぜ」
「……怒ってるね? 怒ってることに気付いてないけど、怒ってるんだね?」
眉根を寄せ、目をつり上げたノイに、カルディアが恐る恐る尋ねる。今は、周りに見せびらかせるポーズのつもりはないようだ。ノイは自然と尖る唇をひん曲げる。
「わからん。けどお前が言うなら、そうなんだろう」
ノイは怒っているつもりはなかった。
ただ心の中が、ぐるんぐるんに捩れているような、何処にも発散させられない熱がノイの何かを急き立てているかのようだった。
「……帰りたい」
ぽつりと、小さな本音が漏れた。
すると、カルディアは即答した。
「よし。帰ろう」
「――いいのか?」
「いいんだよ。こうして義務は果たしたんだし、君が喜んでないなら、もうこんな場所に用はない」
ノイを抱えたカルディアは、颯爽と外套を翻して出口に向かった。唖然としている貴族の波を、足早に駆け抜ける。
「――ヒュエトス!」
「ヒュエトス魔法伯爵――!」
正気に戻った人々が背後から声をかけるが、その時には既にカルディアは馬車の中にいた。膝の上にノイを載せ、顔を覗き込んでいる。
「ごめんね。君の賢さに、つい甘えてしまったようだ。許してくれないか、俺の花嫁さん」
(よく言う。大好きだと言ったら、慌てて子ども扱いし始めたくせに)
それの何が悔しいのか、ノイにはわからなかった。精神年齢が見た目と違うから、子ども扱いが耐えられないのだろうか。でもそんなの、今に始まったことではない。彼の婚約者になってからずっと、そんなこと、気にもしていなかったのに。
(そのくせ、皆の前では、体よく婚約者扱い)
そんなことが、ただただ悔しくて、ノイはドンッとカルディアの胸を叩いた。
「ごめん、ごめんね。どうした。あのクソガキ共に、何か嫌なことを言われた?」
心底困り果てた顔をしたカルディアが、ノイの頭を撫でたり、肩を撫でたりと、必死に機嫌を取ろうとする。
動き出した馬車の窓に映った自分を見て、ノイは落胆する。
(こんなに素敵なドレスを着ても、どう見ても、兄と妹だ)
カルディアはまともだ。
子どもに対する保護者として、何も間違ったことをしていない。
(今すぐ身長が伸びればいいのに)
悔しくて、苦しくて、ノイはもう一度カルディアを小さな拳で叩いた。
(今すぐ大人に戻れればいいのに――)
子どもになったことに、心底不便はしていないつもりだった。どうせ、死んでいた身だ。生きているだけ儲けものと思うことにして、第二の人生を歩むつもりだった。
けれど今、何故か、小さな体が悔しくて堪らなかった。
「傍を離れるんじゃなかった。本当にごめん」
カルディアがノイをぎゅっと抱き締める。ノイは尚も暴れたが、カルディアは賢いことに、ノイを離さなかった。
離されなかったノイは、仕方が無く――本当に仕方が無く――カルディアにぺたりとくっついた。
ずっ、っと鼻を鳴らすと、カルディアがびくりと体を揺らす。
金も権力も魔力も持ち、この世界の何だって手に入れられるだろうカルディアが、ノイが鼻を啜る音一つで怯えている。
ノイの胸が、熱くなる。
少しだけ機嫌を取り戻したノイは、彼の震えに気付かなかった振りをして、じわりと目尻に貯まっていた涙を、カルディアの服で拭う。
「……いつも、断ってたんだろう?」
「うん?」
「舞踏会」
「ああ、そうだね」
結局一曲も踊らないままに出て来てしまった。ノイは王宮魔法使い時代に鍛えたステップで、カルディアをリードしてやるつもりだったのに。
「何故、今回は行くことにしたんだ?」
カルディアなら、ノイとの婚約をあの国王に認められても、認められなくても、結局どちらでも良かったのではないだろうか。二人の関係はすこぶる良好に見えた。八十年ぶりに出なければならないほど、事態が差し迫っているとは思えなかった。
「……王宮舞踏会では、珍しい食材が振る舞われるし、オルニスじゃ作れないような立派な料理もある」
カルディアは深紅の瞳で、ノイの目を覗き込み、眉を下げた。そして、ノイの目尻に溜まった涙を、そっと指で拭い取る。
「……それに、女の子は好きかなと思ったんだ」
心底苦しそうに、申し訳なさそうな声で、カルディアがそう言った。
「……私のため、だったのか?」
「そのつもりだったんだけどね。俺はいつも、上手くいかないね」
ため息交じりに言うカルディアに、ノイは心の捻れが解けていくのを感じていた。
(……八十年も行かなかった場所に、私のために?)
それは、王宮料理も霞むほどの嬉しい言葉だった。
ノイの胸がぎゅっとなる。ノイは心臓に手を当てて、カルディアに寄り添ったまま呟いた。
「カルディア、大好きだぞ」
「……はいはい。ありがとうね」
背もたれに寄りかかっていたカルディアは、ノイの頭を撫でながら、気のない素振りをしつつも、何処かホッとしたようにそう言った。







