52 : 春よ来い
ノイはぽかんとして、堂々と階上へ登り始めた男を見つめる。
(……あ、あいつは! 街にいた偽物じゃないか!?)
まさか大勢の貴族がいる社交場にまで、図々しく乗り込んで来るとは思ってもいなかった。
しかし、ノイ以外に驚くものはいないようだった。
舞踏会場の誰もが、あの男を――偽物のヒュエトス魔法伯爵を、本物だと思い込んでいる。
中には面識がある者もいるのかもしれない。偽ヒュエトス魔法伯爵を見て、難しい顔をして髭を擦る男もいた。
更に、カルディアさえ驚いていなかった。楽しそうに目を細め、階段を上る男を見ている。
「お初にお目にかかります。我が陛下。太陽の息子。わたくしが天涯の魔法使い、カルディア・エウェーリンが孫、現ヒュエトス魔法伯爵です」
舞台俳優のようによく通る声だった。偽ヒュエトス魔法伯爵は悠然と、魔法使いの礼をとる。
「……そなたは?」
国王は視線も向けずに、怪訝な声を出す。
「陛下がご存知ないのも致し方ありません。我が祖父は八十年も前に空へと渡ったきり、一度も王都どころか領地にすら降り立たなかった」
男の魂胆が見え、ノイは血の気が引いた。
彼は王都で横暴な振る舞いをするだけに飽き足らず、本当にヒュエトス魔法伯爵に成り代わろうとしているのだ。
偽ヒュエトス魔法伯爵の言う通り、ここにいる誰一人、ヒュエトス魔法伯爵の顔を知らない。
「幸いにして、こうして血は存えましたが、我らが王より婚姻の許可はもらえておりません。陛下、甚だ図々しい願いではありますが、私をヒュエトス魔法伯爵の孫と認めていただけはしないでしょうか?」
朗々とした語り口調で偽ヒュエトス魔法伯爵が慈悲を乞う。
「ど、どうするんだ! あいつ、こんなところにまで!」
ここで彼がヒュエトス魔法伯爵だと国王に認められてしまえば――それはもう、略奪だ。
カルディアは以前、街で同じ目に遭った時、こう言っていた。
『俺は今、自分がヒュエトスであることを証明する術を持っていないし、あそこにいた誰も、正誤を判断する材料を持っていない』
あの時限りのことだからと、ノイも目を瞑るつもりだった。
けれどこのままでは、カルディアは爵位を剥奪される。
「誰ぞ、この者を摘まみ出せ」
「お待ちください! 私は本物です。ご覧ください。この指輪を!」
国王の声に、偽ヒュエトス魔法伯爵が懐から一つの指輪を取り出した。それは、魔法伯爵家の家紋が彫られた指輪の印章だった。
「あ」
周囲から「おお」と声が漏れる中、カルディアが最低な一言を零した。
「まだこの世にあったんだ」
「……な、なんだって?」
「叙爵の時にクソ爺に貰ったんだけど、三人目の弟子に盗まれてね。てっきり、もう溶かされて金に換えられてるとばかり」
「なっ……んだとっ……?!」
ノイは声を震わせる。
「じゃあ、じゃあ、もう、証明出来ないじゃないか!」
唯一の希望があるとすれば、指輪の印章だった。
指輪の内側に国王の紋が入った指輪の印章は、世界に一つしか存在しない。あれ以上に、身分を証明する術は無かった。
「何故?」
「何故、って……お前……」
しかしカルディアは余裕綽々の顔で見ている。
(もしかして、要らないのか……?)
ヒュエトス魔法伯爵という、爵位が。
いや、そんなわけがないと、ノイは腕を捲った。
「私が――!」
勝算など何もない。
ただ、カルディアの手を離さないと、そう約束したから、ノイは足を踏み出そうとした。
「こらこら」
しかし、カルディアがそれを許さなかった。ノイの体をひょいと抱え、いつも通りの位置に仕舞う。
「カルディア――!」
「しぃ」
ノイの口は、カルディアの指一本で封じられた。カルディアの深紅の瞳が、目の前にある。
「聞こえなかったのか。捕らえよ」
「し、しかし――」
国王の言葉に、衛兵はたじろいだ。
彼らにしてみれば、目の前の男は現ヒュエトス魔法伯爵である。国王が今、交流を再開すると言ったばかりの者を前に、矛盾した国王の命令に動揺している。
「王よ! どうぞ寛大なお心を持って――!」
偽ヒュエトス魔法伯爵が、迫真の演技を続ける。
しかし、国王は冷たい声で男を一蹴した。
「黙れ痴れ者が。ヒュエトス魔法伯爵なら、そこにおる」
国王が、二階からカルディアを見下ろした。
「えっ、なんで……?」
驚いたのは、ノイだけでは無かった。
この舞踏会に集まった、全ての招待客が、カルディアとノイに注目した。
無数の視線に体をびくりと揺らしたノイを安心させるように、カルディアが背を撫でる。
そして不敬にも、国王にひらひらと手を振った。
「……あ、あの者こそが偽物です! ご覧ください! 私はこの指輪を祖父より譲り受け――!」
「ああ、ああ。全く。頭の痛いことだ。何故こんなに大事な物を無くして、ああも平然としておれるのか」
偽ヒュエトス魔法伯爵の声を遮り、国王は首を横に振った。
本当のヒュエトス魔法伯爵が現れても、指輪の印章を持っている限り、偽ヒュエトス魔法伯爵は自分が本物だと言い張る自信があったのだろう。
だからまさか、不仲だと言われていた国王が、ヒュエトス魔法伯爵の身分を保障出来るなんて、思ってもいなかったに違いない。
「そこまで言うなら、機会をやろう。――その代わり、偽りだとわかれば双方、相応の罪を覚悟せよ」
「仰せのままに」
「面倒だな。来るんじゃ無かった」
偽ヒュエトス魔法伯爵と、カルディアは正反対の返事をした。
ノイは全く付いていけていなかったが、カルディアがこの窮地をこれっぽっちも恐れていないことだけは、わかった。
カルディアが大丈夫と言うのなら、大丈夫だ。ノイは自然とそう思えるほど、カルディアを信用していた。
「……格好いいところを見せてくれよ、婚約者殿」
「君に言われたら、仕方がないな」
カルディアはノイににやりと笑うと、彼女をゆっくりと地面に下ろすと、人の波の中を悠々と闊歩した。







