49 : 紡ぐは糸か恋か
翌朝、目が覚めたノイは、ムッスリとしたカルディアとベッドの中で対面した。
珍しいことに、カーテンが開いていない。
まだ夜明け前なのかと思えば、王都の人々が窓の向こうで生活している声がした。ずっと浮島で静かな朝を迎えていたノイには、新鮮な朝だった。
「……おはよう」
眠い目を擦り、ノイは不機嫌面のカルディアに挨拶をした。
カルディアは目の下に濃いクマを作り、じとっとノイを睨み付けている。
「なんだったの、昨日の」
「きのうの……?」
上体を起こしたカルディアが、ノイの腕を引っ張って、ノイの体も起こす。
「寝る間際に、言い出したでしょ」
鬼気迫る顔でカルディアがノイの肩を揺する。
寝ぼけ眼のノイは、ガクガクと揺すられながら、昨夜の記憶を掘り起こす。
「……?」
「俺に! 何か! 言ってたでしょ!?」
何をそんなに必死になっているのかわからないが、カルディアが朝からこれほどしつこいのも珍しいため、ノイは付き合ってやることにした。
(なんだったか……夜景が綺麗で……オルニスがいなくて……アイドニが……)
そう、アイドニが。ノイはパチッと目を覚ました。
「思い出した!」
「そう」
カルディアはホッとしたような、絶望したような、よくわからない表情を浮かべる。
しかしノイは気付かず、にぱっと明るく笑った。
「私は、お前が大好きだって言ったんだ!」
寝起きにしては百点満点の笑顔でそう言うと、ノイの肩を掴んでいたカルディアの手から、力が抜ける。
「……あ、ああ……なんだ。そっちの……」
いや、なんだってなんだ。カルディアは一人で呻くと、大きな手で顔を覆った後、ぐしゃぐしゃと長い黒髪を掻き毟った。
ノイは僅かに頬を染めたカルディアに首を傾げながらも、手ぐしでカルディアの髪を整えてやっていた。
しばらくしてカルディアは、何かから立ち直ったようにむくりと顔を起こした。
「……出かけよう」
今日の予定は、カルディアの中では決まっていたようだ。
「いいのか? アイドニとオルニスは頑張ってくれているのに……」
陣中見舞いとまでは行かずとも、差し入れくらい持って行くべきでは、とまごつくノイに、カルディアはきょとんとした。
「アイドニとオルニスが用意出来るのは、ドレスだけだよ。その他の、アクセサリーや靴や化粧道具なんかは、俺達で用意して回らなきゃ」
「な、なるほど」
ノイは慌てて頷いた。確かに、その辺りはスッポリ抜け落ちていた。なにしろノイが社交場に出ていた頃は、靴もアクセサリーも化粧道具も、ガレネー家の蔵へ行けば唸るほどあったからだ。
「とはいえ、俺。お化粧なんてしてあげたことないんだよな……」
出来るかな。と自信なさげに、カルディアがノイのほっぺに触れる。
(……したことないのか)
カルディアは何でも出来そうな上に、そういった事はめちゃくちゃに得意そうな見た目をしている。なのに、女性にはかなり及び腰なため、化粧道具の名前ももしかしたら知らないかもしれない。
そう言えば、恋人もずっといないと言っていた。なんだかご機嫌になったノイは、にこーっと笑った。
「大丈夫だ! 私が出来る!」
「え? ……君が?」
「――気がするっ! きっと、販売店には、知識のある店員がいるだろうし、聞けばいいんだ! 私はちゃんと覚えられる!」
ノイは自分が記憶喪失設定なのを、いつも忘れてしまう。慌てて取り繕うと「そうだねえ」とカルディアも天井を見る。
天井に何かいるのかとノイも仰ぎ見たが、何もいなかった。単純に上を見ただけなのだろう。
「よし。じゃあまずは、行くところが決まったかな」
にこっと笑うカルディアを見て、ノイは「お?」と首を傾げた。
(なるほど、ここかぁ……)
ノイは鼻をすり寄せてくる巨大な猫――謎巡の鼻頭を撫でながら、大きな建物を見上げていた。
ここはエスリア王国銀行――エスリア王国で唯一の銀行だった。門番である神獣謎巡により守られた銀行は、どんな強盗にも屈せず、軍ですら侵入できないといわれる堅牢さだ。
そんな神秘の生き物謎巡は、たった今、ノイにゴロゴロゴロゴロゴロゴロと喉を鳴らしている。ずらりと脇に並んだ衛兵達は流石と言うべきか微動だにしていないが、動揺しているのが伝わってくる。
「……珍しいな。ソレがそんなに懐いてるの」
「はは、ははは……なんでだろうな?」
謎巡は百年経っても、ノイを覚えてくれていたようだ。突然来なくなったノイが、百年後に現れたから、こうして大歓迎してくれているのかもしれない。
ノイはぽんぽんと謎巡の首を叩いた。しかし謎巡はノイにひっついたままだったので、仕方なく、カルディアはノイの顔の近くにカードをかざす。
真横にかざされたカードを、ノイはちらりと横目で見た。
そのカードは残念なことに、百年前にノイが所持していた銀行カードではなかった。
百年前――ノイがこの銀行にカルディアを連れてきた時。彼女は、自分の銀行の名義人をカルディアに変更していた。
本人以外は親にさえ内緒にする符丁をカルディアに覚えさせたのは、彼が今後カードを引き継いで、ノイの財産を引き下ろせるようにするためだった。
(クソフェンガローめ)
というのに、カードを預けていたフェンガローはカルディアにカードを渡してくれなかったようだ。
カルディアのために遺していたというのに、普通の人間なら数人が一生暮らしても余るほどの金が国庫に還元されたかと思うと、腹立たしい。
「流るる雲、大いなる天の原――」
謎巡が口を開く。
ハッとしたノイは慌てて両手で耳を押さえながら、茜色のタイルから出て行こうとした。
この茜色のタイルを出てしまえば、カルディアと謎巡がどんな合い言葉を言い合っていても、魔法が遮断して聞こえなくなる。
しかしカルディアは、ノイの腕を掴んだ。
唖然とするノイの前で、カルディアは口を開く。
「碧き一天より降る目細し陽光」
「夢のさざめき、回る希望――」
「闇の布に射す時灯り」
「過ぎゆく時、変わらぬ満ち欠け――」
「大いなる土をけむる雫の喜び」
ノイは出来る限り手に力を入れて、耳を押さえ続けた。符丁を言い終わったのか、カルディアは首を傾げてノイを見下ろす。
「何してるの?」
「な、何って……! 聞かないようにしていたんだろう!?」
ノイがその辺を勝手にほっつき歩いて、迷子になると危惧したのだろうか。おかげでノイは符丁を聞かないように必死だったというのに、当の本人はぱちくりと瞬きをしている。
「聞いてて良かったのに」
今度はノイがぱちくりとする番だった。
「き、聞いてていいって……」
「君は俺の花嫁さんでしょ?」
謎巡が不承不承身をずらし、入り口を開ける。愕然としたままのノイに、名残惜しそうに鼻を押し付けてくる謎巡に手を振ったカルディアは、ノイの手を引っ張って階段を降りる。
「は、花嫁だからって……」
「君に聞かれて困ることなんて何もないよ」
(……嘘つき)
カルディアは、ノイに聞かれて困ることだらけのはずだ。
どうして浮島にいるのかも、どうして百年も生きているのかも、どうして魔力の質が変わってしまっているのかも、大事なことは全て隠している。
聞けば答えてくれるのかもしれないが、ノイはもうこれ以上、カルディアにはぐらかされたくなかった。
(私は、カルディアにとって、たった一つの通過点でしかない)
だからノイは、知らなくていい。目線一つで話が通じるククヴァイアがいて、事情を把握しているオルニスがいる。
何も知らなくていい相手だとカルディアに思われていることを自覚するのが、ノイは辛かった。







