46 : 思い出のひとひら
「あっ――!」
アイドニが男に手を引かれていない方の手で、口元を押さえる。
男が拳を振るい上げ、ノイが衝撃に備えた、その時――
「何をしてるんだい?」
群衆の中の一人が声をかけてきた。背の高い、すらりとした年配の女性だった。
男はノイの鼻先で拳を止めると、女性を見て明らかに馬鹿にした笑いを向ける。
「何って、このガキが俺にいちゃもんつけてきやがるから、説教してたんだ」
「さっきから見ていたけどね。あんたが手を掴んでる女の子、怯えてるんじゃないかい?」
老婆の言葉に、男は眉を上げる。
「ばあさん、引っ込んでな」
「そっくりそのまま返してやろう」
そう言った老婆は、両手を広げて魔力を撚り始めた。
「ま、魔法使いかっ――!」
老婆の魔法陣を見た途端、慌てて逃げようとする男の靴目がけて、年嵩の魔法使いが魔法陣を発動させる。小さな威力の魔法陣だったが、靴を一つ地面にくっつけるくらい、訳はなかった。
男はものすごい勢いでベタンッと床にずっこけた。
ノイは慌てて、アイドニを反対方向へ引っ張る。男はこけた拍子にアイドニから手を離していたため、ノイとアイドニは男と反対方向に勢いよく尻餅をついた。
男は負けを感じ取ったのか、尻餅をつきながら、ズルズルと下がっていく。
「……ああ! なんだ。捜してた妹、見つかったのかい。いや何。妹を捜してるって言うから、一緒に捜してやってただけだ! 悪かったな、ばあさん!」
男は言い訳がましく早口で群衆に言うと、地面に縫い付けられた靴を片一方脱ぎ捨て、人混みに消えていった。
男が離れたことで、群衆達も興味をなくしたのか、また歩き始める。
「アイドニ! 無事だったか!?」
アイドニは何もついて行けていないのか、ぽかんとしたまま、涙を流している。ノイはアイドニの手を引いて、道の端に寄った。
動いたことでハッとしたアイドニはノイを見て、小さく首を何度も横に振った。
「ノ、ノイ様、いけませんっ……! 貴方は、魔法も使えないのにっ……!」
「アイドニこそ、ああいう時は大きな声で叫ばないと駄目だ! それか、魔法で蹴散らしたっていい!」
「で、でも、魔法は人には……」
「魔法は人に当てずとも、使うことは出来る!」
そう言ってノイは、先ほどそうして助けてくれた人を振り返った。
「心優しき魔法使い殿。大変助かった。ありがとう。心からの礼を言わせてくれ」
ノイは両手の指と指を交差させて持ち上げると、腰を落とした。魔法使いにとって、最高の敬意を表す礼である。
年若く、魔力も持たないノイがその礼をとったことに、年嵩の魔法使いは幾分か眉を上げて驚いた表情を見せたが、すぐにその皺に驚きを隠した。
「年を取るとお節介になって叶わんよ。助けになったようで、何よりだ。お嬢ちゃん、これからは気を付けるようにね」
年嵩の魔法使いがにかりと笑うと、アイドニは先ほどのことを思い出したのか、震え始めた。
「あ、あのお方が、急に手を掴んできて、わ、わたくし、何度も一緒には行けないとお伝えしたのに……手を離していただけなくて……」
驚くほどの箱入り娘だった。年嵩の魔法使いもそう思ったのだろう。心配そうにアイドニを見る。
「あんたら、保護者は?」
「いるんだが、はぐれてしまって……」
「なら、そこまで私が送ろう」
年嵩の魔法使いはアイドニとノイの後ろに立つと「私のことは馬車を引く馬だとでも思えばいいさ」と快活に笑う。
「そんな……先ほどは、本当にありがとうございました。貴方は命の恩人です」
アイドニがしおらしく頭を下げると、年嵩の魔法使いは大きく笑う。
「はは。礼ならニンジンでいいよ。大好物なんだ」
「まあ、本当に馬のようですのね」
笑うと、アイドニは本当に美しい。睫毛に溜まっていた涙は朝露のように光り、咲いたばかりの花のようだった。
年嵩の魔法使いと共に、ノイとアイドニは来た道を帰った。
先ほどまでいた場所に辿り着くと、馬車の荷台に寄りかかるカルディアがいた。御者とオルニスはおらず、辺りを探し回っているのだと思われた。カルディアは、馬車のある場所にノイ達が戻ってくると思い、待機していたのだろう。
ノイ達が近付くと同時に、カルディアのもとにオルニスが走って来る。
「いたかい?」
「いえっ……何処にも……」
オルニスが乱れた声で答える。額から流れる汗を、袖で拭っていた。
「全く、あの馬鹿はっ……! 迷惑しかかけない!」
苛立ちがのったオルニスの声が聞こえる。アイドニはその瞬間、ノイの腕を引っ張って、路地に隠れた。年嵩の魔法使いも、おやっという顔をして、二人の後ろに回る。
「オルニス。アイドニに、優しくしてあげたらどうだい?」
オルニスとカルディアはノイ達に気付かなかったようで、話を続けていた。
「先生ならともかく、僕に優しくされたって、あいつはてんで喜びませんよ」
「そうかな?」
オルニスの言葉に、カルディアは訳知り顔で尋ねた。
「……」
「本当に?」
「……」
カルディアの問いに、オルニスは黙ったままだ。
ノイはこそりとアイドニを盗み見た。アイドニは今にも爆発しそうな体を無理に押さえ付けているかのように、壁にぴたりと自身を押し付けている。
「……先生は、変なことをおっしゃる」
「君ならわかると期待してのことだ」
「――仮にもし、先生の言うことが正しかったとしても、僕には何も出来ません」
オルニスは逡巡した後、酷く落ち着いたトーンで、感情を押し殺しているような声を出した。
「……応える気は、ありませんから」
低く冷たいオルニスのその響きに、アイドニの膝から力が抜ける。
ノイは驚いて、アイドニと目線を合わせた。
「……アイドニ?」
小さな声で尋ねると、ネズミでさえ聞き逃しそうな微かな声でアイドニが呟いた。
「……あ、あんなやつ、大嫌いですわ……」
アイドニの大きな瞳から、ぽろぽろとまた大粒の涙が流れる。ノイは困った顔で、アイドニの涙を袖で拭った。
「嫌いだから、別に、なんてことありませんの……本当ですのよ……」
ノイは、彼女のこの言葉を、信じられなくなっていた。本当に嫌いな相手なら、優しくしないと言われて、泣く必要があるだろうか?
彼女の泣き顔は、とてもじゃないが、嫌いな相手を思っている顔ではなかった。
アイドニが、自分の胸に手を当て強く押し付ける。その仕草を見て、ノイはハッとした。
「……そこ、痛むのか?」
「ええ。嫌いだと、ここが痛むんですの。ノイ様にも、いずれわかりますわ……」
アイドニは胸に手を当てたまま、しゃがみ込んで少し泣いた。
「恥ずかしいところばかり、お目にかけてしまいました」
アイドニは静々と年嵩の魔法使いに頭を下げた。魔法使いは、顔に皺を寄せて笑う。
「若いうちの涙っていうのは、宝石よりも価値がある。あんたは今、一つ自分を輝かせたんだよ」
アイドニはその言葉を胸に染み込ませるように、数秒押し黙ると、次は黙って、頭を深く下げた。
「カルディア! オルニス!」
手を振って、ノイが二人の名前を呼んだ。彼らが勢いよくこちらを向く。
オルニスは一瞬だけホッと息を吐き、安堵の表情を漏らす。
「よかった!」
そしてカルディアは、大袈裟なほどに必死な形相で駆けてきて、ノイをひょいと抱き上げた。ふわりと香るのは、いつもの清涼感のある匂いでは無く、汗の匂いだった。きっと先ほどまで走り回っていたのだろう。
(……カルディアも、走り回っていたのか)
行き違いになるのを恐れ、最終的に馬車に戻って来たのかもしれない。
「大丈夫だったかい? 怖くなかった? 誰にも、何もされていない?」
既にいつも通りの飄々とした顔を見せるカルディアだったが、手が微かに震えているようにも感じて、ノイはしっかり頷いた。
「ああ。アイドニも無事だ」
「よかった……オルニス、符翼鳥を。警邏隊はもう動かさなくていいと伝えてくれ」
「承知しました」
どうやら、かなり大ごとになっていたようだ。ノイは冷や汗をかきつつ、カルディアの服をぐいぐいと引っ張った。
「そこの御仁にな、助けていただいたんだ」
カルディアに抱かれたまま、ノイが年嵩の魔法使いを指さす。カルディアはノイを地面に下ろすと、両手の指と指を交差させて持ち上げ、ゆっくりと頭を下げた。
「彼女達を守り、無事に送り届けてくださったこと、このヒュエトス魔法伯爵が心より感謝する」
気の良い笑みを浮かべていた年嵩の魔法使いが、カルディアの名乗りを聞いた瞬間に表情を変える。
「……ヒュエトス魔法伯爵だって?」
眉間に皺を寄せた彼女が、その名前にいい印象を持っていないのは明白だった。ノイは慌てて、年嵩の魔法使いに駆け寄る。
「違うんだ! 街で横暴を働いてるのは、カルディアじゃない! 偽物が出ているせいで、我々も困ってて……何処の店でも門前払いを食らっているほどなんだ!」
ノイの訴えを聞き、魔法使いはくいっと眉毛を上げた。
そしてノイ、アイドニ、オルニス、カルディアと順に見ていくと、ふむと顎に手を当てる。
「なるほどね。魔法伯爵、とご大層な名にしては、あのクソガキはちっぽけな魔力だと思っていたところだよ」
ヒュエトス魔法伯爵を見たことがあるのだろう。魔法使いは顔を顰めてそう言うと、自らを「お節介」と称しただけある優しさで、ノイらに声をかけた。
「この辺りの店なら、私も顔が利く。何を欲しがってたんだい?」







