100 : 掴んだ手の先
覚悟していた不快感は、ただの一つも襲ってこなかった。
ただ、触れる柔らかさと、こちらを見上げる熱の籠もった瞳に心を奪われた。途中からは、なんのためにキスを始めたのかさえ、忘れていた。
これまで何度も抱き上げた体だ。なのに、全く知らない体のようにも思えた。擦れ合う箇所が痺れるように甘い。
カルディアはただ、夢中だった。
ノイにだけ、夢中だった。
唇を離したノイが、カルディアと同じ気持ちじゃなかったと知った瞬間――彼は冷水を浴びせられた気分になった。
カルディアの感じていた熱や幸福が、まやかしのように感じられたのだ。
(……ノイにとってはただの、確認のためのキス)
そのことが、身を引き裂かれそうなほどに辛かった。
***
「おはよう、カルディア」
朝、人が集まり始めた食堂で、ノイはカルディアに挨拶をした。
ただ挨拶をしただけなのに、カルディアは大きく体を揺らした。
その衝撃でカルディアの服が当たり、食堂の隅に飾られていた調度品が床に落ちる。
ノイとカルディアは互いにぽかんとして、落ちてひび割れた何かしらの形を象っていた陶器を眺めた。カラコロカラ……と、陶器についていた取っ手が廊下を転がる。
それがパタリ、と廊下の向こうで息絶えたのを確認すると、ノイは慌てて駆け寄る。
「な、何をしてるんだ!?」
陶器を拾おうとしゃがみかけたノイを、カルディアが制した。
「こら、駄目だよ。――おっちょこちょいなんですから。離れてください」
話しながら、カルディアは魔法陣を編んでいた。割れた陶器がくるくると舞い、元々の形に戻る。廊下の先で行き倒れていた丸い取っ手も、カポンッと元の場所に戻った。猫足のサイドボードの上に調度品は戻ったが、割れる前の状態に戻るわけではないので、またその場でカシャンと崩れる。
「君、ここを片付けておいてくれ」
「かしこまりました」
側で給仕をしていた使用人に声をかけたカルディアが、ノイに確認する。
「どこも怪我していませんね?」
「うん」
「では、席へ」
何事もなかったような涼しい顔をして、カルディアがノイの背に手をかざす。その瞬間、隣を通り抜けようとした王国兵が、トンッとノイにぶつかった。
「わっ……すみません!」
「大丈夫だ」
「いえ、本当に――!」
王国兵はノイと言うよりも、ノイを通してカルディアに謝っているとうだった。
「……申し訳っ……ありま……」
王国兵の顔が、どんどんと青ざめていく。
王国兵とぶつかった拍子に、カルディアに身を預ける形になっていたノイが、王国兵の顔色に気付いて首を傾げた。そして訝しみながら、彼の視線の先――自分の肩を抱くカルディアを仰ぎ見る。
そしてノイは、あんぐりと口を開けた。
「……カルディア?」
ノイはぱちくりと瞬きをしながら、手を伸ばした――カルディアの、林檎よりも真っ赤な頬へ。
しかしカルディアはノイの手をさっと避ける。
「……はは……ははは……」
そして乾いた笑いを零しながら、ずりずりと後ずさると、食堂から逃げ出した。
食堂に集まった一同はぽかんとして、カルディアを見ていた。
最初に我に返ったのは、オルニスだった。
「ど――どうしたんですかね。先生は。熱でもあるに違いない」
はは、ははは。と師匠そっくりの乾いた笑いを漏らすオルニスを見たアイドニが、「あら」と口元に手をやった。
「まあ、驚いた。貴方の目は節穴なんですの?」
「熱だ。熱以外にありえない。こんなのに……嘘だ……」
こんなの、と呼ばれたノイはぱちくりと瞬きをしてオルニスとアイドニから視線を剥がすと、先ほどカルディアが消えていったドアを追いかけた。
***
「カルディア」
追いかけて来てほしくなかった。追いかけて来てほしかった。
相反する二つの感情が同時に巣くっていたカルディアのもとに、ノイは現れた。
廊下に置かれた椅子に腰掛けていたカルディアは、すぐに立ち上がり、ノイを迎える。
(何を言われるのだろう)
気まずさと、気恥ずかしさがない交ぜになる。
昨夜のことも、先ほどのことも、触れてほしくなかった。
こんな風に自分の失態を恥じ入るなんて、何年ぶり――何十年ぶりだろうか。
居心地の悪さから顔を俯かせるカルディアの前に、ノイは立った。
「昨日、もしかして水に濡れたか?」
「え?」
「さっき、顔が赤かった。熱でも出たんじゃないか?」
ノイはカルディアに触れない位置に立つと、心配そうにそう尋ねる。
カルディアは渡りに舟とばかりに、その小舟に乗り込んだ。
「え、ええ。そうなんです。昨夜から熱っぽいと、思っていまして」
「魔王を倒してからこちら、お前はずっと無理をしていた。おいで、私が上手く言っておいてやるから。今日は休みなさい」
ノイが食堂とは反対の方向へ歩き始める。カルディアの寝室の方向だ。仮病を使ったカルディアは、ノイの後ろをついて行きながら、軽口を叩いた。
「ノイも隣で寝てくれますか?」
ようやっと、自分を取り戻せたような気がしたカルディアに、ノイが明るく笑う。
「止めておこう。それじゃ、お前の熱が下がらない」
ぴたりと足を止めるカルディアの前で、ノイも「あっ」と呟いた。慌てて振り返ったノイが、取り繕うように、にこっと笑う。
「子ども扱いしてしまったな! 私がいるからと、もうベッドではしゃぐような年でもないのに!」
子どもの頃、ノイと同じベッドで眠っていた時でさえはしゃいだことは無かったが、カルディアもノイと同じくにこっと笑った。
「ノイはいつまでも私を子ども扱いするので、困ったものですね」
「本当だ! 本当に私は困ったやつで!」
ははは、と棒読みで笑うノイに、カルディアは眉根を寄せた。
「ノイは困った人じゃありません」
「どっちかにしろ」
「こんな俺は嫌いですか?」
「……困ったやつなのは、お前だったか」
呆れ顔で笑うノイは、また前を向いて歩き出した。小さな歩幅で歩く彼女に合わせて歩くのは、慣れていない。
(いつも抱き上げて、俺のペースで動いてたから)
昨夜、久しぶりにノイを抱き上げた。愛おしくて仕方が無くて、いつまでも抱いていたかった。
「私はな。どんなカルディアでも、きっと好きだよ」
ノイの揺れる後ろ髪を見ながら考えていたカルディアは、彼女の声で会話に引き戻された。
「大人じゃなくても――それこそ、弟子じゃなくなっても」
「弟子じゃなくなるなんて、言わないでください」
「わかったわかった」
「それに、きっとってなんです」
「すまないすまない」
「心が籠もってない!」
ノイは全く、意にも介していないかのように笑う。その後ろ姿を、カルディアは苦々しい気持ちで見つめていた。
(俺は絶対好きなのに)
全く響かない。届かない。
(ノイが師匠じゃなくたって――)
君が師匠だと、知らなかった時も。
(俺は君を――)
そう考えた瞬間、カルディアの脳裏に様々な思い出が蘇ってきた。
共に手を繋いで星空を歩き、晶火虫を見上げ、泣かれて泣いて、一緒に王都にも赴き、毎日同じベッドで眠った。
カルディアは己の顔を手で覆う。
その全てが――ノイと過ごした、愛しい日々。
ノイが師匠と知った瞬間から、まるで過去の彼女は膜で覆われた別世界の住人のように、何処かで感じてしまっていた。
けれど彼女はノイ・ガレネーであり、ノイだった。
そしてカルディアはきっと、彼女が師と知る前から――ノイに惹かれていた。







