99 : 月明かりでダンスを
「――カルディア。キスしてみないか?」
「絶対に駄目です」
体中の勇気を掻き集めて放った渾身の提案は、間髪入れずに却下された。
「一回だけ」
「いけません」
カルディアは頑なだった。その表情は、先ほどとは違い、徐々に青ざめていっている。ノイは「すまなかった」と素直に謝った。
「無理強いはしない。気持ち悪いことを言って、すまな――」
「もし吐いたのがノイにかかったら、どうするんですか」
「……え?」
「俺はノイに嫌われるくらいなら、ここで沈んで死んだ方がマシです」
青ざめた顔で、カルディアは真顔でそう言った。
ノイは困惑して、カルディアに尋ねる。
「待て、私にキスして、気持ち悪くなるのが嫌なんじゃないのか?」
「同じことじゃないですか」
「全然違う」
ノイにとってそれは、全く違う意味だった。
「私はゲロ塗れになるくらい平気だ」
「嘘です。そんな女の子いません」
「かけられても、すぐにここで洗い流す! 三秒ルールって言うんだ!」
「そんなルール、俺は知りません」
「今教えた」
「……」
カルディアは渋い顔で押し黙った。
ノイはカルディアの頬に手を当てる。びくりと震えたカルディアの顔が、徐々に赤らんでくる。ノイがペパーミント色の瞳でカルディアを覗き込むと、彼は悔しそうに眉根を寄せて、赤ら顔で視線を逸らした。
その顔に勇気をもらい、ノイはもう一度だけ尋ねた。
「一回だけ。すまないが、一回だけ我慢してくれ。それで駄目なら、もう我が儘言わない」
ノイに頬を包まれたままのカルディアが、顔を背けたまま、目線だけを向ける。
「……我が儘っていうのは、王都にも行かない、ってことですね?」
「……そうなるのか?」
「なります」
「――わかった。じゃあ、キスしてみて、少しでも可能性がありそうなら、私は頑張って、ここでお前を落とす」
これからキスする二人とは思えないほど、ノイも渋い顔で頷く。
「そんなことしなくても、俺の全てはノイのものなのに……」
ぶつぶつと言うカルディアの顔を、ノイはぐっと引っ張った。
「約束だぞ!」
「わかりました」
観念した顔をするカルディアの腕から降りる。上からキスを迫れば、カルディアに逃げ場がないためだ。
つま先立ちをしたノイは、ぐんとカルディアの服を引っ張った。
カルディアはされるがまま、身をかがめる。
だが彼の顔を間近で見た瞬間、ノイは顔を真っ赤に染めた。
(……出来ると、思ってたのに)
赤くなって顔を俯かせるノイを、カルディアが見た。そして彼も、また顔を赤く染める。
「ノイ? 止めておきますか?」
真っ赤な顔で苦々しい表情を浮かべるカルディアに、ノイはぶんぶんと首を横に振った。
「止めない……」
その声はあまりにもか細く、震えていた。
情けない自分を奮い立たせ、ノイはカルディアの服を掴む手に力を込めた。
ノイがキスをしようとしていることが伝わったのか、カルディアの顔にも緊張が走る。
「い、いくぞ」
「……はい」
力を込めすぎた手がぶるぶると震える。
勇気を振り絞り、ノイはもう一度つま先立ちをした。湖面に映し出された二人の影が、一つに重なる。
そっと、触れ合うだけのキスだった。
互いの柔らかさを感じる暇も無く唇を離し、ノイは踵を湖面に下ろした。
ぱっと、カルディアの服から手を離す。触れ合った唇が熱い。
(なんだか、泣きそうだ)
幸福が唇から押し込まれたようだった。
真っ赤になった顔を俯かせながら、ノイは手をバタバタと動かした。
「ど、どうだ? 気持ち悪く、なってないか??」
全身から汗が噴き出す。酷く動転して、高揚して、切なかった。
「……よく、わかりませんでした」
「え?!」
「当たってなかったのかも」
「は?!」
口元に手を添えたカルディアに、ノイは驚いて顔を上げた。
(当たった。絶対に当たった)
噂に聞くレモン味はしなかったが、確かに唇に唇が当たった感触があった。
(……でも、もしかしたら。もう一回する、チャンスか?)
ずるいノイはチラリとカルディアを盗み見た。
けれどもう一度するということは、またノイが勇気を出さなくてはならないということでもあった。
ノイは覚悟を決めて頷く。
「わ、わかった。じゃあ、次はちゃんと――んむ」
ノイが最後まで言い終える前に、ノイの唇が塞がれた。
彼女の唇を塞いだのは、カルディアの唇だった。今度は、先ほどよりも長く触れ合う。
「ど、うし……」
二人の唇が離れた瞬間に尋ねようとしたノイの口を、またカルディアの唇が塞いだ。
「ん、うう、ん」
カルディアの唇は徐々に温もりを増し、柔らかくなっていった。ぬるつく唾液で互いの唇が擦れ、ノイの背筋に震えが走る。
ノイが本能から体を引くと、カルディアが彼女の細い腰を抱いた。仰け反るほどに背を反らせても、ぎらついた深紅の瞳が追いかけてくる。
触れれば噛み付かれそうなほど、視線を合わせれば捕らわれそうなほど、獰猛な目をしている。
ノイの背が、先ほどとは違う衝動で震えた。
(たべられてしまう)
それから唇は何度も隙間を生み、その度に再び塞がれた。
どちらともなく吐息が溢れ、苦しげな熱の籠もった視線が絡み合う。何度も触れ合う内に唇は互いの柔らかさを覚えていく。
ノイの体にはもう、一つも力が入っていない。完全に足は空中に浮いている。くたりと力が抜けたノイの体を、カルディアが抱き上げていた。
ようやく互いの熱が離れた頃には、ノイの唇はじんじんと痺れていた。ふわふわに腫れた唇は、好き勝手に舐められ、吸われていた。
互いの呼吸が、獣のようだった。
荒い息を繰り返すノイを、カルディアが抱き締める。いつものように片腕に抱くのではなく、体全体でノイを抱いていた。
重なり合う体が上下する。呼吸も心臓の音もぴたりと一緒になればいいのにと、不思議なことを思った。
「……カ、ル、ディア……」
見たことがない、ギラついた目でカルディアがノイを見る。
「――わかった、か……?」
こてん、と首を傾げてノイはカルディアを見上げた。
その瞬間、カルディアの瞳がさっと冷えていく。
先ほどまであった情熱は消え、彼の瞳には失望が浮かんでいた。
驚いたノイは目を見開く。
「……ああ、そう。そう、でしたね……」
カルディアは傍目に動揺して、呟いた。
「……ノイは、俺の、具合を見るために……」
カルディアはそっと、ノイを下ろした。
そのままノイも見ずに、ふらふらと歩き始める。
ノイはその後ろを、ゆっくりと歩いて着いていった。







