声に出して
教室に響く数学教師の声は、一応は耳に入って来ているけど、すぐに反対側の耳から出ていってしまうみたいで、頭の中にはその残響しか残っていない。ノートも黒板に書かれた文字を拾っているだけ。数学の時間はいつもこうだ。
頬杖を突いて、ぼんやりとしていた私の目の前に、突然、前の席の朋子の手が伸びてきた。
驚いて、前を見ると、朋子は教壇の方を向いたまま、腕だけを後ろ向きに伸ばしており、その指には折り畳んだメモ用紙が挟まれていた。
私が、そっとそのメモ用紙を受け取ると、何事もなかったように朋子は腕を引っ込めた。
裏面に『斉藤あずさへ』と書かれているメモ用紙を開くと、可愛いキャラが印刷されたメモ用紙に一目で誰が書いたのかが分かる、丸っこい文字が書かれていた。
『放課後、カラオケに行こうよ ゆうこ』
親友の裕子からのメッセージだった。
携帯の持ち込みは禁止されていて、使用しているところを見られたら、即没収されるから、授業中に思いついたことのメッセージのやり取りは、昔ながらのメモのリレーでされていた。
私の席は一番後ろで、裕子は前から三番目の席だから、今のメモは、教室の約半分の距離をリレーされて、私の席まで運ばれて来たということだ。
私も、ドナルドダックのイラストが描かれているお気に入りのメモ用紙を取り出して、『おーけー! 二人で?』と書き込み、折り畳んで、裏面に『澤田裕子へ』と宛先を書くと、前の席の朋子の背中をとんとんと叩いた。
朋子も心得たもので、すぐに後ろ向きに腕を伸ばしてくれたので、私は、その手にメモ用紙を握らせた。
宛先を見た朋子は、隣の女の子にそのメモ用紙を手渡した。男子の所を通さずに、どのルートを通せば最短距離でメモを届けることができるのかを、朋子も瞬時に判断したみたいだ。うちのクラスの女子は、本当に訓練が行き届いている。
宛先に書かれた人以外は、そのメモをのぞき見しないという不文律もきっちりと守られている。
私のメモが届いた裕子は、また少し俯き加減になって、何かを書いていた。知らない人が見れば、一生懸命、黒板の数式を書き写しているみたいだけど、そうじゃない。
私の元に、再び、裕子のメモが届いた。
『坂本くんと広瀬くんと合計4人』
――えっ?
坂本君と広瀬君は同じクラスの男子だから、話をしたことはあるけど、一緒にカラオケに行ったことはないし、私は、そもそもそんな付き合いができるほど、二人と話していない。
私は、また、裕子にメモを書いた。
『どうして、その二人なの?』
すぐに、裕子からメモが返って来た。
『坂本くんはおまけ。広瀬くんLOVEって言ってたじゃない?』
確かに、広瀬君のことは素敵だなって思う。クラスの男子の中で、近くにいるだけで胸がドキドキするのは、広瀬君だけだ。
私は、裕子への返信メモを書いた。
『好きだけど、まだ、心の準備ができてないよ!』
メモが届いた裕子は、後ろを振り向いて、私の顔を見た。その悪戯っ子ぽく笑う顔は、何かを企んでいる気がした。
裕子は、また、俯き加減になって、何かを書いているようだったけど、すぐに頭を上げると、何故か、メモ用紙を自分の前の子に渡した。宛名を確認したその子は、そのメモを一番前の席にいる広瀬君に渡した。
メモを受け取った広瀬君は、後ろを振り向いて、私を見た。私は困ってしまって、思わず、俯いてしまった。
――裕子の奴! 何て書いて、広瀬君に渡したのよ?
しばらくして、顔を上げ、広瀬君を見てみると、ちょうど、広瀬君が後ろに手を伸ばしたのが見えた。その手にはメモ用紙が挟まれていた。
私が、そのメモの行方を注目していると、前の席の朋子に届き、朋子が後ろ手でそのメモを私に差し出した。
私が、その折り畳まれたメモを受け取ると、ドナルドダックのイラストが透けて見えた。私が裕子に出したメモだ。宛名を確認してみると、私が書いた『澤田裕子へ』と、裕子の字で書かれた『広瀬君へ』の文字が二本線で消されて、その下に見慣れない字で『斉藤へ』と書かれていた。
私は、恐る恐るメモを開いた。
私が書いた『好きだけど、心の準備ができてないよ!』の前に、裕子の字で『斉藤あずさは広瀬君が大』と書き加えられていた。
――これじゃあ、マジ、告白じゃない!
私は、体が熱くなり、顔も赤くなってきているのが分かった。
広瀬君を見ると、黒板をじっと見つめているようだった。
裕子を見ると、ニヤニヤしながらピースサインをしている裕子と目が合った。
――裕子! 覚えてろよ! ……あれっ?
興奮の余り、気がつかなかったけど、よく見ると、メモの右下には吹き出しが描かれていて、その中には『俺も』と書かれていた。その字は、『斉藤へ』という宛名の字と同じ筆跡のような気がした。
このメモ用紙に、裕子の他に書き足しができたのは、後ろから見ていた限り、広瀬君しかいない。
と、言うことは、この『俺も』は、広瀬君が書いたということになる。
私は、また、広瀬君の方を見た。広瀬君は、私の方を向いていて、私と目が合った。嬉しそうに笑った――少なくとも私にはそう見えた――広瀬君は、すぐに前を向いた。
私は、このメモに『どう言う意味なの?』と書いて、折り畳み、宛先を広瀬君にして、前の朋子の背中をつつこうとした。
でも、止めた。
――ちゃんと、声に出して訊く。




