26 レッスン
後書きに、お知らせを追記しました。(12/8/2020)
俺は急いで麦茶を飲み干すと、空のコップをお盆に戻した。
晴夏も自らのコップをトレーに置くと、それを片付けるため、キッチンへ移動する。
晴夏が居間から離れている短時間で、俺はヴァイオリンケースを背負い、レッスンを受ける部屋へ向かう移動準備を完了させる。
いよいよ、はじまるのだ。
境野先生を師とした、晴夏との自主練習が。
いったいどんなレッスンになるのだろう。
期待の大きさからきたものなのだろう──武者震いが身体の中心を走り抜けた。
「新太、行こうか」
晴夏から声をかけられた俺はしっかりと首肯し、足を一歩前に踏み出し、その後ろ姿を追うようにして、レッスン室へとつづく廊下を進んだ。
ふと顔を上げると、視界に入った廊下の壁に、意識が吸い寄せられる。
壁一面に貼られたコルクボード。これは、大きな掲示板のような役割を担っているのだろう。
その上には、たくさんのポスターや写真が重なるように貼られていた。
最初に目についたのは、境野先生が出演を予定しているコンサートのもの。
淡いエメラルドグリーンのドレスを着て、ピアノの前で微笑む姿は、どう見ても『祖母』というイメージではない。
境野先生を母親だと紹介されたら、きっと素直に信じてしまうだろう。
そのポスター群の中には、外国語で書かれた柊紅子の海外公演の広告も含まれていた。
俺は足を止め、そのポスターを見上げる。
真紅のドレスに身を包んだ強烈な美女──柊紅子の挑むような眼差しと嫣然と笑う表情は、激しい炎を連想させた。
晴夏の母親は──目を奪われるほど、美しかった。
単なる印刷されたポスターだというのに、彼女を直視すると胸がドキドキした。
本人がいる訳ではないのに、見つめるだけで、なんとなく──気恥ずかしいのだ。
おそらくこういう女性のことを世間一般に、『妖艶な美女』と表現するのだろう。
柊紅子の瞳に宿るのは、燃え盛る──紅蓮の炎。
その苛烈なまでの印象は、普段の晴夏が見せる『氷の花』の静謐さとは相容れないもののように思えた。
けれど、俺は、知っている──晴夏の『青き焔』を彷彿とさせる演奏を。
あの動画を見ていた俺は、この二人の奥底に、何処か似通った血の滾りを感じた。
この時俺は初めて、晴夏と柊紅子の二人が紛れもない親子だと、本能的に理解できたのかもしれない。
壁のポスターに釘付けになっている間に、晴夏は玄関にほど近い木製の扉を開けていた。
レッスンスタジオとして使っている部屋なのだろう。
慌てて晴夏の後に続こうと歩み寄るが、何故か晴夏は入室せず、今度はノックするような動作をみせた。
何も無いはずの場所から、カンカンという硬質な音が生み出される。
開かれた木製扉の内側には、金属製のドアが待ち構えていたのだ。
「防音……扉? 俺、二重のドアなんて、初めて見た」
俺の口からこぼれた言葉を拾って、晴夏は頷く。
「扉だけでなく壁も、防音材で作られているんだ。昔、母が昼夜問わずにピアノを弾いていたそうで、近所迷惑にならないように、祖父母がこの部屋を作り替えたと聞いている」
防音扉の向こうから、境野先生が指ならしのために奏でるピアノの音色が廊下に響いてくるが、この音量であれば屋外に洩れることはないだろう。
なるほど──これならば近所に負い目なく、深夜や早朝であっても、好きな時に好きなだけ練習ができる。
世界の柊紅子が創られた一端を垣間見たような気がして、俺の心が高揚感を覚えた。
重い扉を開けると、ピアノの音色が突然生気を宿したかのように、廊下の奥へと広がっていく。
晴夏は俺を伴って入室すると、迷いなく部屋の奥に設置された応接セットまで移動した。
中央に置かれた低いテーブルの上に、自分のヴァイオリンケースを置いた晴夏から、俺もそれに倣うようにと目線で促される。
俺たちが室内に入ると同時に、境野先生はピアノを弾く手を止めた。
先生はグランドピアノの前で座り、二人の準備を静かに待っているようだ。
晴夏と二人して、演奏する態勢を整えると、境野先生は即座にAの音を鳴らした。
手早く調弦を済まし、揃って先生に視線を移す。
「新太くんのお母様から、先日の合同レッスンのビデオをシェアしていただいたの。私もあなた達二人が作り上げた音楽を聴かせてもらったわ。その後の榎本先生からの指示も確認しているから、それを踏まえて、より良い表現ができるように、頑張りましょう。じゃあ、セカンドから。晴夏──」
境野先生からの声かけで、晴夏は小さく頷き、ヴァイオリンを左肩に添え、顎で固定する。
突如、二人の雰囲気が変化した。
今まで見せていた『祖母と孫』の関係というよりは『師と弟子』の姿のように、俺の目には映った。
その変わりようを目のあたりにし、俺の気持ちも更に引き締まる。
晴夏が短く、けれどはっきりした音で、鼻から息を吸い上げた。
次の瞬間、セカンドヴァイオリンの音色と伴奏の織りなす旋律が、部屋の中に弾けて溢れた。
…
弾き始めの数小節、まだ俺の出番がないうちに、境野先生の指導が始まる。
「晴夏、そこはタララララッタ、タッタッタッタ、ラッタ〜ラじゃなくて、きちんとタッタッタ〜と最後まで緊張感を持って。音を歌わせながら、もう一度、ハイ!」
晴夏は真摯な眼差しで頷き、すべての音に全神経を傾ける。
音程の高さは違うが、晴夏の受けた注意を心に留めながら、俺のファーストヴァイオリンが演奏に加わる。
「そうそれ! 新太くん、いまの弾き方忘れないで」
俺は返事をする余裕さえ持てず、必死に音をかき鳴らす。
俺と晴夏は言葉を発することなく、境野先生の指示を忠実に音にいかそうと食らいついていく。
「二人とも、今の小節、お互いの呼吸をもっと読んで。アイコンタクトしっかり」
「はいそこ! 長いフレーズだけど、息切れせずに、最後まで気持ち良く弾いて〜。そうそう! 苦しく聴こえないように〜」
「そこ! もっと柔らかく」
「新太くん、その入りからジャン、ジャン、タラララララララの部分、もっと丁寧に。盛り上がっていく登り坂の場面だから、大切に弾いて」
「速い! 慌てない! 余裕を持たせて〜、そうそう! 今のそれ、いいわ〜! 今の弾き方、二人ともしっかり覚えておいて」
「音、歌って〜! タラリラタラララ、タラリラタラララ、タラリラタラララ、ルルルルル〜、はいっ 切り替えてテーマに戻る!」
境野先生の声がレッスン室の中に元気よく響きわたる。
ふたつのヴァイオリンの音色とピアノの伴奏が、時を忘れたように何度も何度も繰り返される。
恍惚としたようなこの感覚は、深い集中から生じているのだろうか。
境野先生のピアノは包み込むように、俺たちの音色を殺すことなく、より輝かせようとしてくれる。
弾いては直し、直しては進む──その小さな前進の繰り返し。
境野先生は、ヴァイオリンの音をその声で表現し、弾き方を歌いながら指導していった。
時々、時間をとっては、今までの細かな指示を先生が楽譜に書き込んでいく。
直す項目に関する音色や、イメージに対する情報量が多彩で、楽譜は鉛筆の走り書きで溢れていった。
「はい、じゃあ、今日はここまで」
突然、境野先生の声が耳に届いた。
俺は、時刻を確認する。
時計の針が、練習を開始してから既に一時間以上経過していたことを教えてくれた。
妙な痺れを脳内に感じながら、晴夏と共に頭を下げて、レッスンのお礼を伝える。
「ありがとうございました」
今日一日では、すべてのページを直すことはできなかった。
それでも、かなりの箇所をより良く演奏できるようになった筈だ。
「次回の榎本先生のレッスンで、更に先生が改善してくださるだろうから、しっかり指導を受けてきなさい」
俺と晴夏は「はい!」と、力強く返答した。
深く集中していたため、あっという間の時間だった。
没頭したあとに訪れる、気怠さと充実感に満たされながら、俺はヴァイオリンをケースへと片付ける。
グランドピアノに蓋をした境野先生は、再び『祖母』の顔をのぞかせた。
「さ、二人とも──集中したからお腹が空いたでしょう? サンドイッチを作っておいたのよ。お話をしながらそれを食べて、新太くんから頂いたお菓子もいただきましょう!」
俺と晴夏は、境野先生のあとにつづき、レッスン室から居間へと戻った。
■ 12/8/2020 追記 ■
読んでいただき、ありがとうございます!
更新が遅れております。
本編が物語前半部分の佳境にいるため、そちらに集中して執筆しております。
『その音』の区切りがついたのち、『氷の花』を一気に完結まで運びたいと思っております。
お待たせして申し訳ございませんが、ご理解いただけますと幸いです。
どうぞ宜しくお願いいたします。
青羽





