25 境野晴子
『柊』と書かれた表札を横目に、装飾の施された黒い鉄製の門扉をくぐる。
俺はヴァイオリンを背に、晴夏とその祖母に先導されるようにして、日陰になった玄関ポーチに上がった。
その途端、夏の焼け付くような日射しは遮られ、微かに涼しい風が肌にあたる。
表札の苗字から連想されるのは、ピアニストの柊紅子。
晴夏の母親は、やはり柊紅子本人なのだろう。
俺は少し緊張しながら、晴夏の祖母宅に足を踏み入れた。
「お邪魔します」
頭を下げて挨拶すると、晴夏の母方の祖母──境野晴子先生は優しげな笑顔を見せた。
…
鷹司邸の最寄り駅まで姉に送ってもらった俺は、晴夏の母方の祖母であるという境野先生に迎えられた。
姉はこれから学校の友人と図書館で待ち合わせ中。
帰りは、晴夏の祖母が自宅まで送り届けてくれることが決定している。事前に、境野先生と俺の母との間で話しがついているらしい。
最初、晴夏の自宅である鷹司家にお邪魔する心づもりでいたのだが、境野先生が俺たち二人の自主練習の指導を買ってくることになったため、練習場所が変更になったのだ。
母が「境野先生」と口にするたび、晴夏の母方の祖母であれば『柊』ではないのか、と不思議に思っていた。
けれど、ふとした可能性が脳裏を過る。
そういえば、柊紅子が晴夏の実母だとしたら、本名は鷹司紅子のはずだ。
そこで思い至る──もしかしたら、女性の音楽家は、旧姓で活動している人が多いのかもしれない、と。
だから、境野という苗字も旧姓の可能性が高い。
居間に通された俺は「母からです」と伝え、持参した紙袋を境野先生に手渡した。
レッスンを見てもらうことになっていたため、通常であれば謝礼金が発生してもおかしくない。
境野先生からは「子供の遊びに付き合うだけですから」と、謝礼については前もって固辞されたようだ。
かと言って手ぶらでお世話になるのも憚られ、母は地元の銘菓を準備し、その菓子折りを俺が持参したのだ。
「お気遣いありがとう。お母様にお礼の連絡を入れないとね。レッスンの後、みんなでいただきましょうか」
先生は、小豆色の和紙で包まれた箱を受け取ると、俺に冷たい麦茶を勧めてくれた。
「ありがとうございます。いただきます」
ひと口飲み干すと、喉の奥に清涼感が訪れる。
外気に触れ、熱をもった身体がホッと安らいだような気がした。
その場で境野先生が改めて自己紹介をはじめる。
境野先生の本名は、やはり柊晴子さんというらしい。
俺の予想通り、旧姓で仕事をしていることが分かった。
「僕の母もピアニストで、『柊』という旧姓で仕事をしているんだ。本名は『鷹司紅子』という」
こともなげに、自分の母親の情報を口にする晴夏に対して、俺は驚きを隠せなかった。
「え? それって、喋っていいの? 秘密の話じゃないのか?」
咄嗟にそんな言葉が出てしまう。
テレビのCMで時々目にする柊紅子──見た目の若さや独特な雰囲気もあるためか、世間では年齢不詳のミステリアスな美女という認識だ。
先日の合同練習の帰宅後、姉と共に柊紅子と晴夏の関係について母親に伝えたところ、母はとても驚いていた。
母やその周囲──榎本門下生の親同士の繋がりでさえも、知られていない情報だったのだろう。
話をしているうちに、俺も姉も何故か興奮してしまい、その様子を目にした母は心配そうな表情を見せた。
母は俺たち二人が話し終えるのを待って、「わかっているとは思うけど」と前置いてから釘を刺す。
「有名なピアニストを目にして、二人共興奮しているんだろうけど、他所様の家庭の事情について他の場所で話題に出してはダメよ。公にしていないということは、何か事情があるかもしれないし、誰が耳にするか分からないんだから、気をつけなさい」
興味本位で首を突っ込むな、と母から厳しく注意を受けたばかり。
だから、二人の関係が気になったものの、自分からはその話題について触れないつもりでいた。
けれど、それは公然の秘密だったのだろうか?
晴夏は、なんでもないことのように、その内容を口にしたのだ。
「秘密? いや……榎本先生も知っているし、音楽関係者なら母の身元を知らない人は、多分……いないと思う。わざわざ言う必要もなかったから、音楽教室の生徒で知っている人は少ないとは思うが」
境野先生は、晴夏の言葉に何故かウフフと笑う。
「言う必要はなかったけれど……晴夏はね、新太くんに本当のことを伝えておきたかったのよ。隠し事をしているような気分で、お友達と一緒に演奏をするのは嫌なんですって」
「晴子さん!?」
晴夏が慌てたように境野先生の名前を呼ぶ。
祖母を名前で呼んでいる事実に、俺は何故か彼らしいなと感じていた。
境野先生の言葉に、晴夏は珍しく落ち着きのない態度を見せ、こちらをチラリと盗み見た──ような気がした。
晴夏は軽く咳払いをすると、努めて冷静な声を装い「母にも許可は取ってある」と素っ気ない声色を口にのせる。
境野先生は晴夏を見て忍び笑いを洩らすと、今度は俺に視線を移して微笑んだ。
「新太くんは心配してくれたのね。でも、大丈夫よ。隠している訳じゃなくて、単に話す機会がなかっただけのことだから」
「はぁ……」
返答に窮した俺は、気の抜けた声を洩らす。
晴夏と境野先生が、こう言っているのだ。
きっと俺が知っていても、大きな問題にはならないのだろう。
境野先生が「それにね」と付け加えるように言って、何を思い出しているのだろう──再びクスクスと笑いはじめたのだ。
「紅子ったら、晴夏に音楽教室に通うお友達ができたと知って、大喜びでね。最初はあの子が、あなた達二人のレッスンを指導すると息巻いていたのよ。でもね、残念なことに海外公演と重なっていたの。だから私が代わりに、二人のレッスンを引き受けたのよ」
え!?
俺は目を見開き、口をポカンと開けた。
まさか柊紅子本人が、自主練習の指導に名乗りをあげていたとは思いもよらず、挙動不審になってしまう。
「あなたはね、晴夏が自分から歩み寄った、数少ないお友達のひとりなの。だから紅子も興味津々なのよ」
柊紅子が俺を気にしていると聞かされ、更に動揺する。
なんと返答してよいのか見当もつかず、思考も停止状態だ。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、境野先生は晴夏と視線を合わせたあと小さく頷いた。
「もっとお話をしたいところだけれど、お茶を飲んだら早速演奏しましょう──晴夏もソワソワして、早く練習をはじめたいようだしね。
新太くん、少し緊張しているでしょう? 楽器を弾いて、早く身体の硬さをほぐしましょう」
境野先生は、菓子折りを持って立ち上がる。
「晴夏。私は先にスタジオで準備をしておくわね。麦茶を飲み終わったら、二人で一緒にいらっしゃい」
境野先生はそれだけ言うと、居間から出て行った。
次話、推敲中





