24 『目標』
運転席にいた女性の横顔を、どこかで見たことがあると思った──あの既視感。
晴夏に似ているからだと早合点し、自分の中で勝手に納得したそれは、完全なる誤りだった。
「あの、動画だ」
加山先生が参加したピアノトリオの舞台に、柊紅子が譜めくりに現れ、会場を騒然とさせた映像──あの動画を視聴して、まだ間もない。
どうりで見たことがあると思ったわけだ。
「確かに、言われてみれば、鷹司くんて、少し面影があるかも──柊紅子さんに。でも彼女、相当若く見えていたから、あんなに大きなお子さんがいるとは思わなかったけど……」
姉の茫然とした呟きに、俺は頷く。
正直に言うと、母親世代の年齢のことはよくわからない。
見た目だけでは判別できないことも多いからだ。
「そっか……でも、なんだか少しホッとしたような気がする。鷹司くんの演奏も、あの女の子の演奏も、格が違うって思っていたんだけど、それもその筈──音楽界のサラブレッドなんだね。鷹司くんて」
「サラブレッド?」
意味がわからずに首を傾げた。
確か、母方と父方の祖母は音楽家だとは聞いていた。けれど、父親は音楽家ではない。
姉は、彼女が知っている情報を教えてくれた。
晴夏の父親は、音楽機器や音響、楽器を取り扱うTSUKASAグループの社長ではあるが、学生時代には音楽コンクールを総なめにしていた凄腕のヴァイオリニストだったらしい。
音楽の道に進むのかと思われていたけれど、社会に出る時点で演奏からは手を引き、経営畑で新たな才能を発揮しているとのこと。
少し上の世代のヴァイオリニストであれば、誰でも知っていることだと姉は口にした。
しかも、晴夏の祖父においても、父方母方共に同じく音楽家のようだ。
それぞれが専攻する楽器は違えど、生まれた時から良質の音に囲まれ、それが当たり前の環境でアイツは育っていたのだ。
晴夏にとって音楽は、あって当たり前。
いや、空気と同じ──なくてはならない存在、なのかもしれない。
先日の外出時、加山先生の語った言葉が蘇る。
『彼の周りを取り巻く環境は少し〈特殊〉でね』
『彼と同等に恵まれた音楽環境に身を置く仲間に巡り合うことは、とても難しい』
『彼の家庭環境についての詳細は、僕の口からは話せないけれど、君が彼と深く関わっていくのなら、その理由はいずれ分かるかもしれない』
そういうこと、だったのか。
彼の家庭は、我が家とは違い、かなり『特殊』な音楽家の家系だということが理解できた。
だから、彼は音に対して、あれほどまでに厳しいのだ。
それもそうだろう。
普段耳にする音楽は、世界に名だたる音色。
常に最良の音のシャワーを浴びて育った彼の耳は肥え、培われたその完成度の高い演奏が基準となるため、求める音のレベルが最初から違うのだろう。
その『特殊』な音楽環境を『普通』のことと思っている晴夏と、そうではない周囲の生徒。
両者の間に摩擦が絶えなかった理由の一端が、垣間見えた気がした。
音に正確さを求める彼から、注意を受けた生徒は『怖い』──と、晴夏のことを評した。
彼等は、晴夏が音に向き合う真摯な想いを理解できていないから、そう言ったマイナスの印象を抱いてしまうのだろう。
勿体無いな、と思った。
晴夏の笑顔を見たことのない彼等と、自らの恵まれた環境故に仲間の状態に気づけない晴夏──その両者に対して。
そんな晴夏が求める『音色』とは、どんな音なのだろう。ふと、先ほど彼が語った言葉が蘇った。
『天上の音色』──
どこかで耳にしたことがあるのは間違いない。
けれど、思い出せずにいたそのフレーズ。
姉はもしかしたら、他にも何か知っているかもしれない。
俺は思い切って、彼女に訊ねることにする。
「アイツ──『天上の音色』を目指しているって言ってた。それって、どういう意味なんだ? 真由姉は何か……知ってる?」
俺の問いに対し、姉はすぐに理解したようで、その真の意味を口にのせる。
「『天上の音色』って、柊紅子さんが海外のプロオケと共演した時に、権威ある書評で大絶賛された言葉なんだけど──そっか……そんな大きな目標を小さい頃から持っていたのか……」
姉はそこで言葉を止め、車の走り去った方角を見つめた。
「真由姉?」
「羨ましいけど……でも、ちょっとだけ──可哀想……」
姉の言葉の意味を、俺は理解できなかった。
「なんで可哀想なんだよ? 目標って大きい方が、いいんじゃないの?」
「うーん、そうとも……言うか? でもさ、新太が今回の騒動で立てた目標って、何だったか覚えてる?」
勿論、覚えている。
「『正しい音程で弾く』こと」
姉は静かに首肯する。
「それってさ、頑張れば達成できる目標だったから、今日まで練習を続けられたんじゃない? もし最初の目標が『鷹司くんを超える』だったとしたら? お盆の帰省中に見たあの動画──あれを見た時点で、気持ちがポッキリ折れちゃっていたかもしれないじゃない?」
俺はハッとした。
小さくとも確固たる目標を持っていた俺は、自分のするべきことを見失わずに済んだ。
でも、目標としていたのが最初から『鷹司よりも上手く弾く』だったとしたら、俺はあの衝撃を受けたあと、モチベーションを保てただろうか?
「目標って定めるのが難しいのよ。簡単に叶えられても有り難みがないし、大き過ぎても届かない。努力で到達可能な高みを目指して、まずはそれをクリアする。その達成感で、更なる目標に進める──少なくとも、わたしはそうやってきたから」
姉の言わんとしていることは、なんとなく理解できた。
小さい目標を少しずつ達成し続けることで、結果的に大きな目標をかなえることが出来る。
そう言いたいのだろう。
段階的に成功体験を味わうことで、辛く厳しい道程でも、地道に続けていけるのは理解できる。
現に俺は今日、ひとつの目標を達成できたことで、次なる目標を目指し、新たな一歩を踏み出そうとしている。
それはひとりではなく、晴夏と共に叶えたい到達点だ。
「でもさ、アイツは──晴夏は、無理しているような感じじゃなかった。多分、アイツにとって『天上の音色』は『達成可能な目標』なんだと思う」
俺の科白に、姉はキョトンとした表情を見せたあと、柔らかな微笑みを見せた。
「そっか──世界が違うと言えば、それで済んじゃうんだけど。わたしよりもアンタのほうが鷹司くんのこと分かっているだろうし、うん……だから、きっと、そうなのね。それにしても──」
姉がウフフと声に出して笑いながら、俺の首に腕を回してきた。
「なんだよ? くっつくなよ! 暑いだろ!?」
俺は慌てて手をバタつかせる。
「照れるな照れるな。『晴夏』──か。いつの間に、呼び捨てするような仲になったのよ。廊下で何があったのか、真由おねーさまに話してご覧? ん?」
姉が茶化してくる。
けれど、俺は知っている。
俺と晴夏が次なる関係に進んだ事実を知り、姉が心から喜んでいることを。
俺と晴夏は、生まれ育った環境も、家族構成も違う。
本音を言えば、音楽に恵まれたアイツの『普通』の環境を羨ましくも思う。
けれど、俺は、俺にとっての『普通』──両親と姉がいる、この日常に感謝している。
彼等が自分の家族で良かったと、心底感じているのだ。
サラブレッドにはなれない。でも、その中でも自分を見失わず、今ある環境に感謝をしながら、アイツと共に温かな音色を奏でたい。
それが、今の俺の秘めたる『目標』だ。
「俺はあいつみたいな天才じゃないし、そのことは理解している。だから無謀な場所を目指して、折れたりしないよ。だから、真由姉は心配しなくても、大丈夫」
俺が屈託なく笑うと、姉はホッとした表情を見せる。
「なら良かった。うん。さすが、我が弟だ!」
姉は、俺がだいそれた目標を立てることによって、近い将来崩れてしまうことを心配していたのだろう。
「いや、なんかさ。俺、ここんちの子供で良かったわ」
音楽とは関係のない言葉が、思わず口からこぼれ落ちた。
「奇遇だねー。わたしもだ!」
姉はそう言うと、突然破顔した。
各家庭によって『普通』の定義が違う。その事実を姉から指摘されたのは、まだ最近のこと。
なるほど、こういうことなのか──と、妙に腑に落ちた帰路だった。
…
帰宅し、玄関のドアを開けると、母が待ち構えていた。
「新太、さっき鷹司くんのお祖母さまから連絡をいただいたの。あちらのご自宅で、一緒に練習する約束をしたの?」
「──した」
既に情報が伝わっていたことに驚いたけれど、俺は母の次の言葉を待つ。
「鷹司くんの母方のお祖母さま、音楽大学でピアノ科の准教授をされているのよ。伴奏付きでレッスンもしてくださるって。早速、来週の平日にどうかって話なんだけど、それでいいかしら?」
俺の心が、浮き立つように踊る。
晴夏も楽しみにしているのだろうか?
──そうだと、いいな。
俺は笑顔で頷いた。





