20 黎明の二重奏 前編
レッスン室に通されると、姉は三脚を取り出し、ビデオ撮影の設定を開始した。
この動画は、自宅に戻ってから、復習のために活用している。見直すことにより、指導された内容の見落としを防ぐのだ。
一度指導を受けた項目は可能な限り修正し、次のレッスンでは同じ注意を受けないようにすることが大切だ。
ある一定の基準を満たさなさければ、さらに上のレベルの課題には進めない。それは、今までの経験から学んだこと。
技術の習得も一足飛びには進まない。
細かく分けられた段階を少しずつ登り、毎回の指導による矯正で、更なる高みを目指し、一歩一歩近づいて行く――おそらく、とても長い道程になるのだと思う。
だから、先生からの直接指導の時間は、決して無駄には出来ない。
勿論、動画を撮影しているとはいえレッスン中に教授された内容は記憶している。が、第三者的視点から自らの演奏を確認することで、主観では気づけなかった直すべき箇所が目についたりもするのだ。
姉は撮影準備を終えると、母から預かった白い封筒を榎本先生に両手で手渡し、部屋から退出していった。
榎本先生が「真由ちゃんも室内で聴いてもらって構わないよ」と伝えていた。
けれど、姉は「二人の集中の邪魔をするといけないので待合室で聴いています」と笑顔で告げ、深々とお辞儀をしてから廊下へと続く扉をしめた。
今日、鷹司にはレッスン中に待合室で待機する家族の付き添いはなかった。
鷹司を送り届けた彼の祖母は、封筒に入ったレッスン代を榎本先生に手渡すと「晴夏はこのレッスンのあと予定があるので、母親が迎えに参ります。私もこれからピアノの指導があるので、申し訳ありませんがこれで失礼させていただきますね」と口にしていた。
榎本先生は鷹司の母親を知っているようで「お嬢さんのご活躍は常々うかがっております。彼女が晴夏くんを迎えに来るということは、日本に戻っていらっしゃるのですね」と笑っていた。
二人は暫くの間、当たり障りのない会話を交わし、その後、鷹司の祖母は帰路についた。
榎本先生の口振りから分かったことだが、鷹司の母親は仕事で海外に滞在している期間が長いようだ。そして、今はその仕事が休みに入ったため日本へ戻ってきているのだろう。
通常のレッスン時、彼の送迎は祖母が行い、発表会でも母親と顔を合わせることのなかった理由が分かり、なるほど、と合点がいった。
彼らが話をしている間に、俺と鷹司は自分の楽器を取り出し、準備を進めていた。
弓を取り出してスクリューを捻り、程良く張った馬毛の状態を確認してから、丹念に松脂を滑らせる。
鷹司は既にチューニング作業に入ったようで、四本の弦を順番に調弦し、俺よりも先に準備を完了させた。
チューニング方法は、ヴァイオリンのスクロールを頂点とし、指板を上方と考えた場合、右から二番目に当たるA線から正しい音程に合わせていく。
次に三番目のD線、それから四番目にあたる一番左側のG線、最後に高音域を鳴らす一番右側にあるE線を調整する。
この数週間、姉と練習をする時はチューナーを使用せず、耳だけで調弦する訓練を繰り返していた。
耳に染み付いた基本の四音を頼りに、俺は手早くチューニングを済ませる。
先に調整を終えていた鷹司は、俺の様子をじっとうかがっていたようだ。
視線を感じたのでそちらに顔を向けると、彼は驚いたように目を見開き、スッと目線を逸してしまう。
前回の鷹司の不躾な言動しか知らなければ、彼のこの動きを不愉快に感じていたかもしれない。けれど、今日は不思議なことに、嫌な気持ちにはならなかった。
一瞬ではあるけれど、今まで感情を表すことのなかった『氷の花』が、少しだけ和らいだ空気を纏ったように感じたのが、その理由――なのかもしれない。
鷹司の横顔をそのまま見つめていたところ、彼の口角が少しだけ、上向いたような気がした。
「新太くん、晴夏くん。今日は最初に、二人で合奏をしてみようか――この速さで」
先生はメトロノームを設定し、俺と鷹司に速度の確認をする。
この前の合同練習では、二重奏には至らなかったことを思い出す。
今日が正真正銘、鷹司との初めての合奏になるのだ。
「いいかい。まずはこのメトロノームに合わせて弾いてみよう。最終的には、お互いの呼吸を読むことも必要だが、今は自分のテンポを保って――相手の音に引きずられないようにするんだ。頭の中で自分のパートを歌いながら弾いていこう」
『ふたつのヴァイオリンの為の協奏曲』は、第二ヴァイオリンのソロから始まる。
俺は第一ヴァイオリンの為、最初の数小節は鷹司の奏でる主題を中心に進むのだ。
今迄、俺が耳にした、鷹司の奏でた音色は二種類。
――前回の合同レッスンで耳にした、歪さを内包した音。
――そして、あの動画で聴いた、情熱の音色。
今日の彼は、どんな音を生み出すのだろう。
俺はゴクリと唾を飲み込み、隣に立つ鷹司の様子をうかがった。
ヴァイオリンを構え、呼吸を整えた鷹司は、スンッと鼻から空気を吸い上げ、右手の弓を弦の上で踊らせた。
彼の奏でる音の連なりには、あの日見た――乾いた灰色の景色は見当たらない。
『氷の花』が生み出す調べからは、前回聴いた音色とは異なる、色づいた世界を垣間見ることができた。
初音を耳にした榎本先生が身体を前のめりに倒し、鷹司の様子を食い入るように見つめた。
彼の音色の変化に興味を示した様子が、こちらにも伝わってくる。
鷹司の爪弾く音色は、俺が過去耳にした二種類のどちらでもなかった。
彼が今、目の前で爪弾くその調べは、微かな不安を覗かせながらも何かを期待している――そんな人間味に溢れた音色だった。
少なくとも、俺の耳には、そう聴こえたのだ。
鷹司の独奏を受け継ぐように、俺は鼻から勢いよく息を吸い上げ、弓を引く。
第二ヴァイオリンの放つ色づいた音色を邪魔することなく、寄り添うように第一ヴァイオリンをかき鳴らす。
鷹司の音色を自分の中に吸収し、共鳴させ、ただ高めあうためだけに、自分の音を絡めていく。
何度となく、姉と共に繰り返し弾いた旋律が、指先から紡がれる。
清廉な朝露のような調べが広がり、清々しさを帯びた空気がその場を支配し――二人の世界を満たしていった。
他のことは何も考えられなかった。
ただ、美しく。
俺と鷹司の二人だからこそ創り出せる、夜と朝の狭間を表すような黎明の世界を――この旋律に載せて響かせたい。
それ以外の想いは、何も浮かばず、俺は、ただ只管に―― 一心不乱に、ヴァイオリンを歌わせた。





