19 『感謝』と心遣い
日曜日――俺は、姉と共に音楽スタジオへ向かうことになった。
先日、先生から電話で確認された鷹司との合同レッスンのためだ。
通常時は母が出向き、レッスン中のビデオ撮影の設定等をしてくれるのだが、今日だけは違った。
今朝になって遠方に住む母方の親類から連絡が入り、久々に都内に出てきたので我が家に挨拶がてら立ち寄るという話が進んだため、母は自宅待機をすることになったのだ。
そこで、母の代わりに、急遽真由姉が音楽スタジオまで付き添いを申し出てくれ、現在電車にて二人で移動をしている最中だ。
ビデオ撮影機材を持つ姉にお礼を伝えようとしたところ、察した彼女がそれを止める。
不思議に思って首を傾げると、姉は苦笑していた。
「相方クンがどんな子なのか興味が湧いたというか……所謂――野次馬みたいなものなの。だから、お礼は言わないで」
姉はそう言っていたけれど、ひとりで教本と楽器の他にビデオ機材の持ち運びをするのは重くて骨が折れる。
そのため、姉がついてきてくれるだけで、とても助かるのだ。
だから俺はそのことを伝え、『感謝』の言葉を口にした。姉はそれを、笑いながら受け取ってくれた。
…
「真由、これね――今日のレッスン代が入っているから、折れないように持って行ってくれる? それから、榎本先生によろしくお伝えしてね」
自宅を出るとき、母が姉に白い封筒を差し出した。
流麗な筆致で『榎本先生』と表書きされたそれは、月に一度、母がまとめて準備をしているものだ。
白地の封筒に黒の墨で丁寧に書き上げられた宛名は、色合いのコントラストが美しい。
俺は昔から、母が筆を持って黙々と文字を書き上げる作業を見るのが好きだった。
艶々とした毛筆書きの墨色が徐々に乾いて行くさまは、ある種の芸術のように見え、幼い頃から母の隣で、この準備作業を静かに観察していたのだ。
宛名が乾くと、母は真新しい紙幣を順番に入れ、封をしていく。
高度な技術を伝えてもらう『感謝』と、休日の貴重な時間を割いて指導してくださる先生への『敬意』を込め、母は必ず新札を用意していると教えてくれた。
新しくても古くても同じ価値だと思っていたけれど、そういった細やかな『心遣い』によって生まれる何かがあるのだろうなと、幼いながらも漠然と感じたことを思い出す。
そう言えば、お年玉をもらった時、古くて皺の寄ったお札よりも、ピンッと張った新札の方が嬉しかった記憶も重なり、そういうことなのか、と母の行動に納得もしたのだ。
母から手渡されたその封筒は今、姉の手により俺の楽譜の間に挟まれ、折れ曲がることなく大切に保管され、運ばれている。
…
音楽スタジオは、世田谷の閑静な住宅街の中にある。
音楽大学の教授をしている恩師は、平日と週末にレッスン時間を設けているが、大学関連の試験や一般のコンクールの審査員を請け負うこともあるため、毎週決まった曜日と時間でレッスンをしているわけではない。
長野や京都という遠方から、新幹線を使って通ってくる生徒もいる。
都内から通える自分は、姉が言ったように『普通』ではなく、やはり恵まれているのかもしれないと改めて気づく。
そして、先ほど渡された封筒の中身についても、思うところがあった。
レッスン代も俺にとっては高額だ。
母が封筒の準備をする様子を隣で見ていた俺は、お年玉でも貰えない金額が一回のレッスンに費やされていることに驚きを覚え、この時間を無駄にしてはいけないと気を引き締めてレッスンに臨むようになった。
そして、その自覚と練習の積み重ねが、鷹司との二重奏に抜擢された理由だと、俺は理解している。
両親共に普段の生活では慎ましくしているけれど、姉と俺――二人分のレッスン代を捻出できるというのも、もしかしたら『特殊』なことで、普通ではないのかもしれない。
駅から音楽スタジオとなっている先生宅までの徒歩移動中、俺はそれらの気づいたことを姉に話してみる。
「そうね。うちは恵まれている方だと思う。お父さんもお母さんも自分たちの贅沢のためじゃなくて、わたしと新太の将来に備えて、使い所を考えてくれていたんだな――って、ちょっと感動したことがあったんだ――と言っても、大学進学の件で二人に相談をした時のことだから、まだ割と最近なんだけど……」
姉が両親と何を話したのか詳細については分からなかったけれど、その言葉からは両親への『感謝』の気持ちがにじみ出ていた。
姉と雑談をしながら歩いていると、十分ほどで先生宅に到着した。
車の駐車スペースになっている入り口を進み、インターフォンを鳴らす。
先生の奥さんも、幼い子供向けのヴァイオリン教室を開いている。
そのため、玄関まで迎えに出られないことが多いため、インターフォンを鳴らしてからそのまま玄関内に入り、廊下にて他の生徒のレッスンが終わるのを待つことになっているのだ。
扉を開け、玄関の中に入ると、現在レッスンを受けている生徒の練習曲だろうか、ヴァイオリンの音色が響いてきた。
俺は微かな緊張感に顔を強張らせながら、待合室となっている廊下の椅子を確認する。
――鷹司は、まだ、来ていないようだ。
姉と俺は少し早めの時間に到着したので、アイツはこれから此処にやって来るのだろう。
鷹司はいつも、二人いる祖母のうち、どちらかひとりと共にレッスンに訪れると聞いている。
それは父方の祖母だったり、母方の祖母だったりと、日によって違うのだが、双方ともに有名な音楽家なのだと、母から教えてもらったことを思い出す。
そういえば、不思議なことにアイツの両親を見かけたことは殆どない。
アイツの親は『世界のTSUKASA』と呼ばれる音楽系の有名企業経営者なので、休日でも忙しくしているのかもしれない。
ああ、でも――発表会の時に、鷹司の父親だと思しき人物を目にしたことはあった。
記憶の蓋を開けたことにより、アイツの父親のことは思い出せた。けれど、母親についての記憶は一向に掘り起こされることはなかった。
ふと、俺は加山先生の言葉を思い出す。
鷹司は、音楽的に、とても恵まれた環境にいると先生は言っていた。
そしてそれを『普通』のことだと捉えていて、その恵まれた環境故に苦しんでいるのかもしれないと、加山先生は暗に洩らしていたのだ。
――それは、どういうことなのだろう?
考えても分からないことではあるけれど、少しだけ気になった。
次の瞬間――突然、俺の全身から汗が吹き出し、心臓だけが飛び跳ねるような感覚に見舞われる。
――玄関の、チャイムが、鳴ったのだ。
それは、アイツがこの場に現れる前触れ。
教会の鐘の音に似たその旋律は、どこか神秘的な高貴さを漂わせる。
まるで――鷹司晴夏、そのものを表すような音色。
俺の耳に、その音は、格調高い調べとして届いたのだ。





