18 『らしさ』
自宅に戻ると姉は、溜め息をつきながら自室に篭ってしまった。
心配したものの、腹痛を伴っている可能性も否めず、胃薬をもらってこようと居間へと向かう。母に夕飯の相談もしたかったのだ。
居間の扉を開けると、台所から水音が届いてきた。
母はどうやら水仕事中のようだ。
キッチンに顔を出すと、作業カウンターの上には梨の箱が置かれていた。
母方の実家から毎年送られてくる梨は、冷やして食べても甘さが強く、果汁もたっぷり含まれているので、家族全員がこの時期になると届くのを心待ちにしている、我が家の夏の風物詩だ。
母曰く、午前中に届いたけれど忙しくて未開封とのこと。
時刻を確認すると、もうすぐ三時を回るところだ。
「今、お母さん、洗い物で手が離せないから、新太、悪いけど箱を開けてもらえる? まだ冷やしていないんだけど、ちょっと食べたいでしょう? 三時のおやつに出すわね」
洗い物を続ける母はそう言ってから、カウンターに二個出しておいて、と続けて指示を出す。
「今日は午前中、お客さんが来ていたから買い出しがまだなの。もう少ししたら出かけるんだけど、お夕飯、何が食べたい? メニューが思いつかなくて」
ここに来た目的のひとつを果たそうと、俺は「真由姉がラーメンを食べたいと言っていた」と伝える。
食べたい物を口にすれば、元気のない姉も笑顔を取り戻すかもしれない。
「ラーメンね。了解。そう言えば、お買い物はどうだった? 楽しめた?」
母の質問に、俺は今日あった出来事を伝えた。
…
「先生の前での真由姉は、俺の知ってる真由姉とは違って――少し……らしくなかった」
今日の真由姉と先生との一連の遣り取りを話し終えた後、俺の口は鳥の嘴のように尖っていた。
らしくない。そう思った俺は、多分少しだけ――姉に対して不満を抱いたのだと思う。
けれど母は、違ったようだ。
「そう? お母さんには、真由らしい言動だなって映るけどな。多分、新太が真由に感じる『らしさ』と、お母さんが真由に感じる『らしさ』は、ちょっとだけ違うのよ。お母さんは赤ちゃんの頃からあの子を知っているけど、あんたは『姉』としての真由しか知らないから……まあ、仕方ないことだとは思うんだけどね」
母は、先ほど俺がカウンターに取り出した梨を手に取って水洗いすると、包丁を手に持ちシャリシャリと手際良く剥き始める。
「真由は新太よりも長く生きている分、経験値があるの。だから、あんたが不安な時や、悩んでいる時、あの子が切り抜けてきたことに対しては、姉としてある程度の助言ができるのよ」
「経験値?」
「そう。この梨の皮が経験値だとしたら、剥いたら真っ白な状態になる」
梨の透き通った色合いがツヤリと光った。
「今日の真由にとって先生との遣り取りは、きっと初めて経験することで、皮をつけていない梨のような状態だったのよ。だから、どうしていいか分からなくて戸惑っていたんじゃないかしら?」
ああ、そうか。
この不満は、『何でも解決できる真由姉』という役割を、姉に押し付けていたから感じることなのかもしれない。
「そうやって『らしさ』っていう枠に当てはめて、自分以外の誰かを見てしまうのは仕方がないことなんだけど――やったらいけないのは、自分の想像と違ったと思って、相手に失望することよ。それは、相手に対して、とても失礼で、身勝手なことなの」
俺は、母の言葉にドキリとした。
今日、真由姉に感じたのはまさしくそれだったから。
いつもしっかりと前を見据えていた姉が、今日に限っては何処か不安定に揺れていて、そんな姉のことを心配しながらも、心の何処かで少しだけ不甲斐なく思ってしまったのだ。
「真由もまだ、色々なことを経験して、悩んで、成長している最中よ。今回のことは、生きてきた年数というよりは、経験しているかいないかの違い。新太も自分が、お友達や家族から、自分の預かり知らないところで勝手に期待されて、失望されていたら嫌でしょう?――ほら、そんな顔しないの」
母は手を洗うと、俺の鼻先をキュッと摘んで朗らかに笑った。
「新太、いい? 誰かを、自分の先入観だけでジャッジしたら駄目。決めつけた段階で、関係を深めることは難しくなるの――これ、お母さんが若い頃に失敗した経験談よ――さ! 梨を剥いたから、お姉ちゃんを呼んできて」
俺は小さく頷くと共に、姉を呼びに行く前に、もうひとつ、母にお願いをする。
「母さん、胃薬を出してもらえる? 真由姉、お昼の食べ過ぎで、もしかしたらお腹が痛いのかもしれない」
母はトレイの上に胃薬と、水の入ったコップを準備してくれた。
姉を呼びに行くと、彼女はすでに机に向かい、勉強中だった。
「真由姉、勉強中? 母さんが梨が剥けたって。あと、これ、胃薬」
姉は時計を確認してから、俺のことを見た。
「ん、ああ、もうこんな時間か……ん? 胃薬?」
先生とのやり取りの途中で、腹痛かと思って体調を心配した旨を伝えると、姉は苦笑いを浮かべた。
「お腹が痛かったわけじゃないの。勢い余って、先生を責めちゃったことを後悔していたというか……でも、薬、ありがとう」
腹痛ではなかったことが分かりホッすると共に、俺が少しだけ残念に思った姉の態度を、真由姉自身も後悔していることが分かった。
姉は椅子の背もたれに寄りかかると、気持ちよさそうに伸びをする。
「後悔しても時間は戻って来ないから、今は前に進むの。とりあえず、今わたしがやるべきことは、勉強。あとは、模試の順位を上げること。溜め息ついてる時間が勿体ないって気づけたから、今はそれで良しとすることに決めたの。先生には……結果を出してから、しっかり謝るわ」
気持ちを切り替えていた姉は、既に勉強への闘志を燃やしているようだ。
俺にとっての『真由姉らしさ』は、こういう前向きな部分を指していたことに気づく。
問題に打ち当たっても目を背けず、解決しようと真摯に向き合う姉の姿は、やはり眩しかった。
それは真由姉が色々な経験をして身につけてきた対処法だということも、先ほどの母との会話から理解できた。
様々な経験値を積んで、今の姉がいる。
真由姉が自分の経験を元にして、俺に心を砕いてくれるように、俺もいつか、誰かのために優しくなれるだろうか。
そんなことを思いながら階下に降り立ち、居間の扉を開けると、母は電話中だった。
どうやら音楽スタジオの先生と話をしているようで、会話の内容が気になりつつも、俺は姉と共に席につく。
ダイニングテーブルに置かれた梨は、みずみずしく輝き、ほのかな芳香を放っていた。
暫くすると、母は電話を切ってこちらに戻り、今週末の予定を話し出す。
「新太、今、音楽スタジオから連絡があってね、お盆休み前に、夏風邪をひいてキャンセルになった合同レッスンのメイクアップを、今週末にどうかって確認されたの。鷹司くんの予定は問題ないらしいから、こちらもその日程で了承しておいたから」
鷹司の名前を耳にして、少しの緊張が心の中を走り抜けた。
その様子を見ていた姉が、俺の強張った身体を解くように、優しく笑いかける。
「新太、おやつを食べ終わったら練習しよっか? 『努力でだけは負けたくない』んでしょう?」
俺は大きく頷き、手にした梨を口内に放り込んだ。
シャリッという爽快な歯応えと共に、甘くて優しい味が、口の中に広がった。





