17 「らしくない」
「ねえ、先生。我が家の『太陽の王子』さま――素直ないい子でしょう? 純粋で――ちょっと羨ましい」
姉の言葉の意味が汲めず、俺は再び首を傾げた。
「わたしにも……打算とか嫉妬とか、そういったズルい感情がなかった時代があったのかな。もう、遠い昔すぎて思い出せない」
姉は寂しそうな眼差しで、どこか遠くを見ているような気がした。
「真由姉?」
その姿が気がかりで、姉の名前を呼んだところ、ハッと我に返った彼女は自嘲の笑みをその面に浮かべる。
「あらやだ。うっかり、ブラックなわたしが降臨しちゃった。いかんいかん」
慌てて取り繕うような科白と共に、姉は両手をパタパタさせ、自分を扇ぎはじめた。
俺が更に小首を傾げたところ、今度は姉の眉が下がりはじめる。
「新太を心配させちゃったみたいだね。ごめん」
姉がいつも見せる『太陽』のような笑顔は、見ることができなかったけれど、俺は知っている。
誰よりも、温かい心を持ち――『太陽』に最も似ているのは、俺ではなく――姉だ。
俺がまだ経験したことのないような辛い経験や苦しい思い出があるからこそ、姉が見せる笑顔は輝いて見えるのかもしれない――彼女の洩らした言葉で、何となくではあるが、そう理解した。
加山先生は、優しげな眼差しを姉に向けている。
「素直にそう思える真由ちゃんは、まだまだ純粋だよ。人間誰しも負の感情はあるものだからね。自分のそう言ったところを認められる強さを持っているキミは、とても素敵な女性だと思うよ。もっと、自分を誇っていいんじゃないかな」
先生の科白を聞いた姉の動きが、ピシリと固まった。
どうしたのだろう。
褒められた筈なのに、すぐにお礼を言わないなんて――真由姉らしくない。
先ほどから大量の食べ物を流し込み続けた胃袋が、とうとう悲鳴をあげ始めたのだろうか。もしかしたら、腹痛に襲われているのを我慢しているのかもしれないと心配になる。
姉の体調を気遣い、「食べ過ぎたのなら、トイレに行ってきたら」と声に出しかけたところ、昼食前の失敗の記憶がよみがえった。
余計なお世話になってしまった姉への『助け舟』を思い出した俺は、同じ轍を踏まないよう、咄嗟に口元をおさえる。
俺の様子を知ってか知らずが、姉は先生に向かって恨めしそうな声を出した。
「先生……どうしてそんな……流れるように褒め言葉が口から出てくるんですか? あのですね、そんなんじゃ、彼女さんがいたら、きっと心配でたまらないと思うんですよ、絶対に――それに……それに、そんな上手いことを言って、もしも、わたしが先生のことを好きになっちゃったらどうするんですか? 大人ってコワイ!」
真っ赤になりながら先生に食ってかかっていくが、先生は姉の態度が急変した理由がわからず、少しだけ慌てはじめる。まずは解決策を探そうと、加山先生は姉の疑問にひとつずつ答えていくことに決めたようだ。
真摯に対応しようとする姿は、誠実な人柄のあらわれのような気がして、とても好感が持てた。
「彼女さん? それは、お付き合いをしている女性ってことかな? いないから、その心配はないよ――それからね……あれ? え? 真由ちゃんが僕のことを? アハハ、それはとても光栄な――」
「ほらそこ! それですよ、それ!」
先生の言葉を遮った姉は、頬を栗鼠のように膨らませた。
姉の突然の切り返しに、先生は困ったような表情を見せる。必死に、解決方法を探しているようだ。
「――ちょっと待って、真由ちゃん、君はどうしてそんなに怒っているのかな?」
先生の戸惑いも、何のその。
姉はズイッと身を乗り出し、再び語りに入ってしまう。
「怒ってないです。口の巧さに、呆れているんです。じゃあ、先生――彼女さんがいないなら、今度の模試で順位を上げたら、次はラーメンを一緒に食べにいってください! 例の軍資金で!」
言い終わったあとで、姉は少しだけ「しまった」と言うような表情をのぞかせた。
姉が怒っている原因は、ラーメンにあったのだろうか――些か見当違いな気もするが、他に姉の様子が変化した理由が思いつかない。
今日のお昼のハンバーグは、俺の希望だった。姉の意見も聞いて、ラーメンを選べば――俺が姉に譲っていれば、先生はこんな風に姉から当たられることもなかったのだろうか。
それに、こんな態度をするなんて――今日の姉は、朝からずっと――いつもの真由姉らしくない。
「ラーメン? 好きなの? 軍資金は使わなくていいから。順位が上がったら、ご褒美に連れて行くよ」
姉の表情が、そこで唐突にパッと明るく輝いた。
「本当ですか?――やった! 約束ですよ! はい、指切りです!」
右手の小指を差し出し、先生が少し躊躇いながら、姉と指を絡めた。
「大好きなんだね」
先生の言葉に、姉が頬を紅くし、少し俯く。
女の人のようだ――瞬間的に、そう思った。
勿論、姉が生物学的に女性だとは知っているが、何故かその時、急にそう感じたのだ。
「……はい。どうしよう……やっぱりそうなのかもしれない。多分、好きみたい……」
先生が嬉しそうな微笑みを見せた。
「大好きなラーメンで模試を頑張れるなら、お安い御用だよ。それじゃあ、そろそろお店を出ようか?」
先生が伝票を手にして立ち上がり、お会計のレジに向かって歩き出す。
姉は目を見開き、呆気に取られた表情を見せると、慌てて訂正の言葉を口のせた。
「え、えと、ちょっとそれは、わたしの言わんとしていることと、ニュアンスがだいぶ……いや、全然違うんですけど。でも、一緒に食べに行けるなら……それでイイです」
姉は落胆した様子を見せると、天井を仰いで軽く溜め息をついた。
落ち込む姿が気にかかり、自宅に戻ったら母に「夕飯はラーメンにしてもらえないか?」とお願いしてみようと心に決める。
お店を出て、俺と姉は先生と駅まで一緒に歩き、改札口で別れた。
…
自宅への帰路、姉は気落ちしているのか、姉弟の会話は一切なかった。
時折、姉の口から「やってしまった」という呟きが洩れ、深い溜め息を落とす姿は、いつもの毅然とした姉の態度とはまったく違った。
今日の先生とのやり取りで、彼女が何かを後悔していることは、俺にも理解できた。
今まで目にしたことのない姉の様子が気にかかったけれど、俺は何も言うことが出来ず、ただ隣に座って見守ることしか出来なかった。





