16 『太陽』と『月』 後編
「先生、もうひとつだけ、鷹司のこと……質問してもいいですか?」
動画の中の鷹司が見せた演奏に驚き、真珠という少女の技術に畏れさえ抱いたけれど、彼等の『協奏曲』は音楽を専攻する加山先生が聴いたとしても、驚異的な合奏だったことがハッキリとわかった。
先生の意見も聞くことができた今、俺が知りたいことは、唯ひとつ。今まで確認する術もなく、ずっと気にかかっていたことを訊ねてみたかったのだ。
「僕が答えられる内容であれば、答えるよ――なんだろう?」
加山先生は姿勢を正すと、テーブルの上で両手を組んだ。
俺は、先生の大きな手から伸びる長い指に視線を向けたあと、そっと目を伏せる。
それと同時に、合同レッスンでアイツが弾いた第二ヴァイオリンの音色が耳の奥で響き、あの歪さを感じた奇妙な感覚が流れ込んできた。
――何かに苦しんでいた印象の強かった鷹司の音色。
――廊下で見せた悲しみの表情。
それらが瞼の裏に蘇るたび、この心が追い詰められることになった長い時間。
思い出すのは、自分の放った言葉に対する後悔と、胸中を占めた苛立ち。
そう――俺の中には、鷹司の苦悩が、すでに色濃く刷り込まれているのだ。
自分のすべきことは既に分かっている。
そして、その為にできることをこの数週間で、可能な限りこなしてきた自負もある。
けれど、あの『炎』を思わせる演奏動画を視聴した後も、音楽スタジオの廊下で目にしたアイツの姿が時折浮かんでは、この心に影を落とし続けていた。
俺が先生に問いかけようとしている質問の答えは、目に見えるはっきりとしたものではない。
けれど、加山先生がどう感じたのか、聞いてみたかったのだ。
だから俺は、それを口にのせた。
「アイツは今――『音楽』のことを、好きだと思いますか?」
――と。
あの動画で、鷹司の音楽に対する熱い想いを感じることができたと涙したけれど、自分の中で育っていた先入観はなかなか消すことができなかった。
先生は、アイツの『氷』のような演奏を知らないと言っていた。
つまり先生の中には、俺がアイツに抱いている印象の最たるものである――苦悩という名の固定観念はないはずだ。
先生の目に、今の鷹司の演奏は――彼の心は、どう映っていたのだろう。
この口から生まれる言葉に耳を傾ける先生に向かって、俺は更に踏み込んだ質問を続けた。
「あのコンサートの時だけではなく、普段の練習でも、あの動画のような色づいた音色で、アイツは……弾いていましたか?」
質問を終えた俺は、再び水を口に運んだ。
その様子を見ていた先生が、少し驚いたような表情を見せてから、ゆっくりと目を細める。
「新太くん――君は、優しい子だね。晴夏くんのことをずっと――心配していたんだね」
心配?
心配は……していた。
でも多分これは、自分の発した苦し紛れの言葉で傷つけてしまったことによる自分勝手な想いだ。
傷ついた鷹司が、和哉のように音楽から離れてしまう未来を恐れていたからに他ならない。
アイツのためだけを思って、口にした質問ではない。
その旨を先生に伝えると「それでも、なかなかそんな言葉は出てこないよ。特に――彼等の演奏を聴いた後なら尚更だ」と苦笑していた。
先生の言葉の意味が理解できずに首を傾げたところ、隣に座っていた姉が俺の頭を撫でた。
「分からなくてイイの。アンタはそのままでいればいいから。きっとそれが、気持ちに折り合いをつけて、あの子たちと向き合っていくコツなんだと思う――ですよね? 先生」
姉の言葉に、加山先生が「難しいところだけれど、そう……なのかも、しれないね」と、考え込むような素振りで返事をする。
二人の会話の真意は、よく分からなかった。二人の会話の深い意味よりも、俺は先生の答えが早く知りたくて、その目を真っ直ぐに見つめる。
こちらの様子に気づいた先生は「質問の途中だったね」と言いながら、俺の目を見つめ返した。
「晴夏くんは、音楽を愛しているよ。一音一音をとても大切に、心を込めて奏でていたからね。それは間違いない」
先生の返答に安堵した俺の身体から、フッと力が抜けるのを感じた。
そんな俺の様子を確認した先生は、更に言葉を紡ぐ。
「彼の練習中の音色も素晴らしかった。日に日に、水を得た魚のような生き生きとした音で爪弾くようになっていったよ。彼が毎日の練習中、喜びに溢れた音を生み出していたのは事実だ。楽器を弾いている時の彼は『氷』というよりは、まるで――――綻ぶ『花』のようだった」
鷹司が、綻ぶ『花』?
――『氷の花』ではなくて?
「まったく……想像がつきません。音楽スタジオでの鷹司は、周りの女子たちから『氷の王子』と、呼ばれていたんです。普段は無口で冷たい印象なのに、音の正確さに対してだけは厳しくて、淡々と指摘するから、仲間内では少し……怖がられていたんです」
俺が説明した鷹司の音楽スタジオでの様子に、加山先生は何を思い出したのかクスリと笑った。
「それは、なんとなく……普段目にしていた晴夏くんの様子からも想像がつくよ。とても彼らしい気がする。晴夏くんは、自分の求める音に対して、とてもストイックだからね。きっと、その厳しさを仲間にも望むのだろうね――同じ高みを目指してほしくて」
鷹司の気持ちは、俺にも理解できる。
アイツの演奏には到底敵わないけれど、俺もあの音楽スタジオの中では二重奏に選んでもらえるくらいの位置にいる。
共に合奏するならば自分と同等か、より上手な人と弾き、自分自身の演奏をより高めたいと常日頃思っていたのは、紛れもない――この俺自身だったから。
「彼の周りを取り巻く環境は少し『特殊』でね。けれど、それを『普通』だと思っているきらいがあるんだ。それは自分の家庭の『外』を知らない彼にとっては、当たり前のことなんだけれど、彼と同等に恵まれた音楽環境に身を置く仲間に巡り合うことは、とても難しい。周囲との折り合いが上手くいかない理由は、そこにあるのだと思うよ」
加山先生は、鷹司の何を知っているのだろう。
「恵まれた環境? それってアイツの親が音楽に関連する企業を経営しているから?」
俺の質問にハッと我に返った加山先生が「ごめんね」と謝りながら言葉を継ぐ。
「彼の家庭環境についての詳細は、僕の口からは話せないけれど、君が彼と深く関わっていくのなら、その理由はいずれ分かるかもしれない」
確かに、他人の家庭環境を根掘り葉掘り聞くのは、良いことではないのだろう。
こうやって鷹司のいないところで、彼についての質問している俺が言っていいことではないけれど、加山先生は話せる内容とそうでない内容を、しっかりと線引きしてくれているようだ。
「晴夏くんは、口数が少ないところがあるから誤解も受けやすいんだろうね。だけど、きっと君も、彼のことをもっと知れば、お互いに良い関係を築くことができる――そんな……気がするんだ」
先生が何故そう思うのか、俺にはサッパリ分からなかった。
俺は既に、鷹司の心を傷つけている。
ハッキリ言って二重奏のパートナーとしてはあるまじき、マイナスからの関係づくりのスタートになるのだ。
「どうして僕がそう感じたのか分からない、という顔をしているね。それは、新太くんの性格をみていて感じたこと――君は暖かな『太陽』みたいで――とても面倒見が良い少年に見えるんだ。その優しさがあれば、『氷の王子』の心を溶かすことができる――そんな予感がしたんだよ」
『真珠』の演奏を『太陽』に例えていた加山先生は、俺の性格も『太陽』だと云う。
『太陽』の演奏が『月』を照らし、彼の音色を目覚めさせたように、俺の『太陽』がアイツに届いた時、何かを生み出すキッカケになるのだろうか。
加山先生の例えに興味を持った姉が、テーブルに身を乗り出してきた。
「『月』は『太陽』の光を求め、『氷の王子』は『暖かさ』で溶けていくってことですか? なんだかロマンチックですね――男の子同士だっていうのが、ちょっと残念だけど」
姉の言葉を聞いた加山先生が顎に手の甲を当て、フフッと楽しそうな笑い声を洩らした。





