12 この感情の正体は
ひとりで動画を確認していた時――
到底かなわないと感じた彼等の演奏は、もしかしたら、心の動揺が見せたまやかしなのかもしれないとも思っていた。
鷹司と少女の演奏に呑み込まれ、超えられない『壁』を心が作り出しているのではないかとも思った。いや――思いたかったのかもしれない。
だが、姉のこの様子を見る限り、それは錯覚ではなく事実だったことを改めて思い知らされる。やはり彼等の演奏レベルは、相当高いものだということが、まざまざと理解できた。
その演奏は、衝撃の一言だった。
――画面の中の二人と自分の技術を比べ、大きな差を感じている筈なのに、潔いまでの清々しさが胸中に存在している――それは何故なのだろう?
――悔しいと感じながらも、鷹司の演奏を聴いたときに生まれた、あの安心感の理由は?
――どうして「良かった」と、口から言葉が飛び出してしまったのか?
分からないことだらけだった。
動画を見続けながらも、自分の気持ちに真剣に問いかける。本当の心と向き合うために。
その疑問のうち、ひとつを覗いてはすぐに答えが判明した。
「良かった」――そう呟いたのは、鷹司が音楽を愛していることがハッキリと伝わり、彼の音色が見違えるような輝きを放っていたことに、喜びを感じたから。
安心感を覚えたのは、俺の言葉を悲観したアイツが、和哉のようにヴァイオリンから離れていく未来への危惧が、なくなったから。
けれど、俺は鷹司の演奏を聴き、泣きはらしたあとに残った、この清々しさの『正体』だけは未だに理解できずにいた。
視線は画面に固定したまま、姉が茫然とした声色で、独り言のような呟きを洩らす。
「新太の相方の男の子も、神童と呼ばれてもおかしくない……素晴らしい演奏だけど……それよりも、この女の子――こんな子が……世の中にはいるの?――ちょっと……どうしよう、鳥肌が止まらない。世界が違い過ぎて、怖い……まるでプロの奏者みたい。これは――この男の子も……相当辛いでしょうね……」
姉の言葉の何かが、俺の心の琴線に触れたような気がした。
その少女が紡ぐのは――紛うことなき、極上の調べ。
俺が鷹司の演奏に打ちのめされたように、鷹司自身も彼女の演奏を聴き、共に奏でることでその差を――己の無力さを実感しているのだろうか?
俺の演奏技術は、鷹司に敵わない。足元にも及ばないと思ったように――鷹司自身もこの少女に対して、同じような想いを抱えているのだろうか。
けれど、彼はそのことを妬むというよりは、全てを受け入れているように見えるのは何故なのだろう?
少女の演奏に対する羨望?
それとも、彼女の演奏に少しでも近付きたいという憧憬?
鷹司の渾身の演奏を受けて、画面の中の少女は未だ見せていなかった本気の音色で迎え撃つ。
音の攻防だ。
なんて人間味に溢れた調べなのだろう。
「俺と……同じだ」
俺と鷹司の間にある、技術の『壁』。
鷹司とこの少女の間にある、次元の『壁』。
鷹司は純粋に、この少女の音色を愛し、共に同じ高みに昇りたいと切望しているのだ。
二人の人間が生み出す、音色という糸で織り上げられた『協奏曲』は、不可思議なタペストリーのように人々の心を虜にしていく。
鷹司は臆することなく少女に挑み、爪弾く音色で喰らいついていく。
アイツは何を求めているのだろう。
全身全霊をかけて放つ音の渦に溺れそうになり、ゾワリと肌が粟立った。
――それは彼が、音楽を愛し、更にその先にある何かを手に入れたいと切望する音色。
もしかしたらその思いが彼の心に火を灯し、灰色だった彼の心の景色に――希望の光を与えたのかもしれない。
俺は鷹司を追いかけ、鷹司はこの少女を目指す。
目の前には大きな『壁』がある。
けれどこの壁は、未来に立ち塞がる陰鬱な影ではなく――
挑戦のために齎された――新たな『目標』だ。
鷹司は、この少女に。
俺は、鷹司に。
お互いに、出逢えたのだ――己を磨き上げるための指標となる同年代の人物に。
程度の差は、言うまでもなく明白だ。
今の俺の技術では、鷹司には太刀打ちできない。
更には、この少女との差はあまりに深く、遠く、比べることさえ烏滸がましい。
でも、俺の中で、ひとつの明確な目標ができた。
第一に目指す場所は「鷹司のような正確な音程」。
それは今までと変わらない。
けれど、そこに音を愛する気持ちを、更に加えて行こう。
一音一音に真心を込め、大切に奏でるのだ。
そして、いずれは、この少女の弾く――遙か高みにある演奏を目指す。
技術の蓄積と、経験を通して、この演奏に少しでもいいから近づきたい。
それは何年にも渡る挑戦になるのかもしれない――でも、俺は!
言葉では説明することのできない得体の知れない何かが、俺の中でジワジワと漲るのを感じる。
嗚呼、そうか。
あの不可思議な感情の『正体』は――
俺の胸の中でポッと音を立てて、温かな火が灯った。
悔しい筈なのに、嫉妬するその気持ちを上回るほどの感謝の念が生まれていく。
――俺は、井の中の蛙だったのか。
音楽スタジオの生徒の中では、そこそこ弾けていた俺は二重奏に選ばれる実力を持っていると自負していた。
けれど、それは本当に狭い世界の中でのこと。
その世界の外側には、鷹司のような、この少女のような、素晴らしい音楽家の卵が存在する。
最初はその事実に打ちのめされそうになったけれど、今、自分の実力の程を知ることができたのは――好機でしかない。
俺は、もっともっと上手くなりたい。
ヴァイオリンを更に美しい音色で謳わせたい。
慢心を捨て、本物の努力を通して追いかける相手を――目指すべき場所を、今初めて、見つけることができたのだ。
そのことに心が躍った。
――おそらくそれが、清々しさの正体。
今は、俺の完敗だ。
でも、いつか――
「うん……よかった!」
姉の突然の声に、ビクッと肩を揺らし、俺の意識が現実に戻される。
「よかった――って、何が?」
俺は姉の言葉に首を傾げるしかなかった。
正直言って俺は、動画の中の彼等の演奏と現在の自分の技術との間に横たわる歴然とした差を感じて、どちらかと言うとショックを受けている状況なのに。
だから、姉の言葉の意味がまったく分からなかった。
「ハッキリ言うとね、新太もかなり上手ではあるんだけど、相方クンは天才の域。更に、この女の子の演奏は神様の領域よ――アンタがヤル気を無くしちゃうんじゃないかって心配していたんだけど――そのぶんだと……大丈夫そうね」
姉の掌が俺の頭の上に置かれ、両目を覗き込まれる。
俺は姉に、今の正直な気持ちを伝える為に口を開く。
「落ち込みたい気持ちもある。でもさ、いずれにしろ俺は、この女の弾いているパートをコイツと一緒に弾かなくちゃいけないんだ。打ちのめされて立ち止まっていたら、何も始まらないだろ? 俺は今、自分のできる精一杯をやっていくしかないんだ。今は演奏で、この二人の足元にも及ばないのは自分でも分かってる。だから――努力でだけは、絶対に負けたくない!」
姉は俺の言葉に、何故か苦笑いだ。
「そっか。『逃げる』選択肢をとらないなんて……やっぱりアンタは強いわね。なんというか……わたしの方が、かなりショックを受けている状況かも――この女の子の演奏に」
最後は独白めいた口調で、タブレットの画面に映る少女を見つめる。
「習い事の一環として音楽を習っているわたしや新太と違ってさ、音楽を専門に学んで、名を馳せる子って、こんな風に……小さい頃から輝く才能を持ち合わせているのかもしれないなって……――ん? あれ? ちょっと待って! ええ!? これって……!?」
突然姉の表情が変わり、驚いたような声音が口から放たれた。
その様子に、俺も慌てて画面に目を向ける。
彼等の演奏が終了した後、観客の大きな拍手に包まれる中、ピアノ伴奏の女性に向かって大きな花束を抱え、ゆっくりと歩いていくスーツ姿の男性が目に入った。
これは――
この人は――
先週、別れ際に話していた演奏会の話題が、突然俺の脳裏を過ぎった。
これって――
「加山先生!?」
「加山先生!」
俺と姉は驚きのあまり、まさかの人物の名前を同時に叫んでいた。





