11 少女
「これは……何ていうか、すごい……っ」
姉が、思わず零れてしまったというような口ぶりで、動画の演奏に対する感想を洩らした。
…
水の注がれたコップを手に真由姉が客間へ戻ってきたところ、俺は声も出さずに泣きじゃくっていたようだ。
いつもとは様子の違う俺を目にして「何事か!?」と、かなり驚かせてしまったのは五分ほど前のこと。
「新太、ちょっとお水を飲んで、落ち着こうか? ティッシュもいるよね?」
箱に入ったティッシュケースを渡され、俺は涙を拭ってから洟をかんだ。
泣いているところを見られたというのに、恥ずかしいという気持ちは生まれず、心に妙な清々しさが生まれていることを不思議に思う。
その感覚は今まで感じたことのないもので、これが何に起因するのか、まるで分からなかった。
俺の呼吸が落ち着くのを待っていた姉から水の入ったコップを渡され、それを受け取る。
浮かんだ氷と氷がぶつかり、水面を揺らした。
口元へ添わせるようにコップを傾けると、氷がグラスの側面に当たって、カランと涼しげな音を立てる。
優しさを宿す氷の音と共に滑らかな水を口に含んだ俺は、静かにそれを飲み干した。
急に生き返ったような気持ちになり、心持ち身体が軽くなる。
相当緊張していたことに気づき、喉の渇きを潤したことにより弛緩した全身から、安堵の息が洩れた。
水を運んできてくれたお礼を姉に伝えると、彼女は笑いながら俺の手から空になったグラスを受け取り、座卓の上に置いた。
泣いてしまった理由は自分でも理解できなかったけれど、事の経緯を姉に説明したところ、今度は姉がその動画に興味を持ったようだ。
二人で鑑賞してみようと話はすぐに纏まり、俺はその動画をもう一度再生する準備にとりかかる。
サムネイル画像を確認した姉は「あら! これは……物凄い美人さん二人組!」と感心したように見つめていた。
――鷹司は確かに、綺麗な顔をしている。
スタジオに通う生徒が彼の美しさについて語っていた時にアイツの存在を知ったのだから、やはり誰の目から見ても容姿端麗なのだろう。
そのことを知っていた俺は姉の意見に同意し、素直に頷いた。
もう一人の少女については、動画を見つけた動揺が先行してしまい、顔は全く覚えていない。
どんな人間なのかと、俺はタブレットの中に佇む少女の顔をまじまじと見つめる。
――見たことのない顔だ。
同じ音楽スタジオでも会ったことはない。
初めて目にする少女だった。
長い髪を纏め、黒い真珠の花飾りを白いカチューシャのようなものに付けている。
真っ直ぐに切り添えられた前髪とアーモンド型の目が、ひどく印象的だ。
所謂、世間一般で言われる『綺麗な少女』なのだろう。
画面上の再生マークをタップすると、姉と二人の鑑賞会が始まった。
演奏が始まって暫くすると、姉の様子が突然変わったことに気づく。
瞬きすらせずに、鷹司と少女の演奏を食い入るように見つめ、一音も聴き漏らしてなるものかと静聴する様子が隣から伝わる。
先程、ひとりで動画を鑑賞した際は、鷹司が俺以外の人間と『協奏曲』を奏でていたことが余程衝撃だったからか、隣の少女の演奏は、正直言って耳に入っていなかったように思う。
何故、彼女のこの演奏に気づけなかったのだろう。
そのことが不思議でならない。
鷹司の演奏を聴き、足元にも及ばないと衝撃を受けたことが記憶に新しいが、彼女の演奏はその鷹司さえも軽く凌駕するものだという事実に、俺は目を見張った。
卓越した音色が少女の楽器から流れ、驚愕の嵐が胸の中を支配する。
綺麗な少女だと思った。けれど、彼女の演奏の前にはその美しい容姿さえも意味を成さずに、霞んでしまうような気がした。
演奏に耳を傾けた途端、爪弾く調べに全てを奪われてしまう。それほどまでに、その少女の生み出す調べは圧巻だった。
彼女は姿形ではなく、技術と音色だけで、聴く者の心を魅力してしまうのかもしれない。
音楽の神に愛されているのではないかと思うような演奏に、視覚ではなく聴覚から引きずり込まれる。そんな不可思議な感覚に、肌が粟立った。
俺が弾くのは、第一ヴァイオリン。
この少女が弾いているのも、第一ヴァイオリン。
同じパートを弾いているというのに、まったく別の曲を聴いているような気持ちになる。
――格が違う。
いや、それどころか――
少女の生み出す旋律に、心が畏怖を覚えるのだ。
俺が鷹司に感じた次元の隔たりというレベルではない。
まるで生きる世界そのものが違うと言われても、素直に納得してしまうような演奏だ。
姉を横目に盗み見ると、彼女は微動だにせず、その動画を見つめ、言葉を洩らした。
「これは……何ていうか、すごい……っ」
あの姉でさえも、彼らの演奏に圧倒されている事実に、驚きを隠せない。
俺はゴクリと唾を飲み込んで、再び動画に集中した。





